732) 大正期の小学校では、「野外教育」という用語はあまり使用されず、「屋外教育」「戸外教育」等と呼称された。本論文では、現代の野外教育とは区別し「野外において組織的、計画的に、一定の教育目的を持って行われる教育活動」の総称として「野外における教育」を用いる。 3) 拙稿「明治後期から大正期の「野外における教育」とその特質─海外の「林間学校」の紹介を中心に─」『早稲田大学教職大学院紀要』第13号、2021年、1-14頁。4)「林間学校奨励補助ニ関スル件」『議員回付建議書類原義(四)』(国立公文書館:本館-2A-029-00・請願00046100)。5)文部省の調査によれば、建議の前の1918年における林間・臨海聚落の実施箇所数は136箇所、1919年は198箇所、1920年は205箇所であったが、建議の可決後の1921年は320箇所、1922年は582箇所、1923年は940箇所と全国的規模で急速な量的拡大を遂げたことが分かる(文部大臣官房学校衛生課『夏季に於ける体育的施設の状況調査』1926年、8頁)。6) 拙稿「大正期における「林間学校」の受容と発展に関する一考察」『学術研究.人文科学・社会科学編』早稲田大学教育・総合科学学術院教育会、2015年、387-407頁。7) 主要な研究は次の通り。山田誠「初期の林間学校の性格について」『神戸外大論叢』第27巻4号、1976年、105-124頁。■田千恵美「大正〜昭和初期の養護学級に関する一考察」『日本大学人文科学研究所研究紀要』37巻、1988年、187-202頁。桐山直人『茅ヶ崎の小さな学校』草土文化、1999年。中村満紀男編著『日本障害児教育史【戦前編】』明石書店、2018年。8) 主な研究としては次の論考がある。渡辺貴裕「<林間学校>の誕生─衛生的意義から教育意義へ─」『京都大学大学院 教育学研究科紀要』第51号、2005年、343-356頁。加藤理「伊勢堂山林間学校の開校-仙台児童文化活動の諸相(12)」『論叢児童文化』第42巻、くさむら社、2011年、8-16頁。加藤理「伊勢堂山林間学校と児童文化活動─仙台児童文化活動の諸相(13)」『論叢児童文化』第43巻、くさむら社、2011年、9-16頁。平沢信康「大正後期の群馬県における林間学校の誕生:前橋市立敷島尋常小学校と桃井尋常小学校による合同開設」『上武大学ビジネス情報学部紀要』第16巻、2017年、1-37頁。平沢信康「群馬県における林間学校の普及と展開:大正末期から昭和戦中期まで」『上武大学ビジネス情報学部紀要』第17巻、2018年、1-47頁。9) 日本野外教育学会『野外教育学研究法』杏林書院、2018年、39頁。10) 富山県教育史編さん委員会『富山県教育史』、上巻、富山県教育委員会、1971年。富山県教育史編さん委員会『富山県教育史』、下巻、富山県教育委員会、1972年。富山県教育記念館『富山県小中学校体育140年の歩み』2011年など。11) 井村仁「わが国における野外教育の源流を探る」『野外教育研究』第10巻1号、2006年、85-97頁。12) 富山県教育史編さん委員会、前掲、1972年、105-106頁。13) 引用にあたり、一部の旧字体や旧仮名遣いは、新字体、現代仮名遣いに改めた。 14) 拙稿「明治中期から大正初期の富山県における小学校教育─「野外における教育」活動を中心に─」『早稲田大学教職大学院紀要』第12巻、2020年、17-33頁。15) 清生「戸外運動の奨励」『富山県教育会雑誌』第46号、1913年、1-5頁。16) 「体育奨励」『北陸タイムス』 1921年8月5日、1面。17) 「学校々庭開放」『富山新報』1921年7月9日、2面。18) 「試金石の陳列会」『富山新報』1919年8月27日、3面。「夏休み中の高岡各小学校」『北陸タイムス』1920年7月19日、3面。「暑休教育施設」『富山日報』1920年7月22日、1面など。一方、受験準備のため小学6年生が夏休中に教員の私宅で個別教授を受ける事例や、富山市で児童を集めて特別授業を実施する小学校があることを批判する記事も掲載されるなど、夏期休暇の過ごし方が課題とされていた(「休暇にウンと勉学」『北陸タイムス』1920年7月31日、3面。「小学校特別授業」
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