4.附属小及び市内各小学校の臨海教育の特質と意義げなかつたものでも皆泳げるやうになつて、少しも泳げないものはたつた一人で、上手なものは水泳場から島尾近くまで十二三町も泳いだ。」とも報告している72。これらの記述からは、多くの児童が泳げるようになったこと、遠泳ができることを大きな成果として教員らが捉えていたことなどが分かる。附属小と同じく、市内小学校の臨海教育の水泳も、虚弱児童向けの「林間学校」の海水浴とは異なり、技術の向上や心身の鍛錬に主眼を置いていたといえる。その他の日課としては、学習や運動・遊びに関する活動が実施された。学習に関わる活動としては、家庭への通信を記入させ、綴り方の実地練習とした。また、夏期休業日誌の記入なども行われている。運動・遊びに関する活動としては、屋外では庭球・野球・フートボール、ブランコが行われ、室内では闘球、将棋、腕相撲、鬼ごっこ、ハーモニカ、読書などが実施された。この他、児童の健康状態を確認するため、毎日体温と脈拍を測定もおこなわれている。食事については、「充分注意して準備した」とあるが、栄養価やカロリーについては特に明示されていない73。新聞報道によれば、富山市内の8校の小学校の就学児童9,921名の栄養状態は、「栄養」甲が2,745名、乙が5,956名、丙220名であった74。また、1921年の「児童身体検査」の結果でも、7歳から12歳の男児4,407名中、「栄養」丙は87名(約2%)、女児4,294名中、丙は104名(約2.4%)と栄養状態の良くない丙の児童は少数であった75。このことから、児童の栄養摂取や食生活の改善については、臨海教育の主要な教育目的となっていなかったと考えられる。これらの日課に加え、市内小学校の臨海教育でも種々の行事が実施された。具体的には、開催地周辺の地理の観察、島尾遠足、國泰寺遠足、雨晴遠足、日出見学、お話会、茶話会などが実施された。また、雨天のため中止となったが、競技会の開催も予定されていた76。たとえば、遠足の様子は「スケッチヅックを携へて雨晴に向ふ。十五町の道は暫時で達す。朝凪の静かな海に無数の帆船朝日に映え岩間に点在し岩上に立ちて釣する人、静かに豊かな煙を残し岩と岩とを優々と縫て行く汽船は将に一畫の絵である。一同は熱心に鉛筆を走らす。そがすむと貝類海草の採集して帰路辰口の古墳を見る。」と報告されている77。スケッチ、海草の観察・採集、古墳の見学など、種々の体験的学習の機会を設けようと意図していたことが、この一文からも窺える。臨海教育の成果については、水泳の熟達や学習上の成果に加えて、体重の計測結果を掲載しており、やはり身体の変容に注目していたと考えられる。具体的には児童の総体重の変化や、体重の増加量の平均、増加及び減退した児童の人数などが掲載された。ただし、体重については報告では詳細に触れていない。体重の増減を見ると、増加した児童が21名、減退した児童が10名であり、減退した児童が一定数存在したために、本文で触れられなかったと推察される78。このように、富山市内の各小学校による臨海教育も、技術の向上を目指す水泳練習や鍛練的な海浜での競技、遠足などの児童の体験を通じた学習等々を活動の柱としていた。附属小の実践と同様に、大正期に奨励された養護中心の「林間学校」とは異なり、児童の総合的な学びや成長を目指す実践として位置づけられるといえる。ここまで、附属小及び富山市内各小学校の臨海教育の実際を明らかにしてきた。このような、両実践の特質や意義はどのような点にあるのだろうか。最後に、両実践の特質と意義を検討する。69
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