キーワード:南西諸島、南島、沖縄、奄美、先島、多褹、琉球王国、境界史【要 旨】南西諸島は、九州島と台湾の間に連なる島々の総称で、大隅諸島、吐噶喇列島、奄美群島、沖縄諸島、先島諸島(宮古諸島・八重山諸島)などの島々からなる。縄文文化の南限は沖縄諸島まで、弥生文化の南限は大隅諸島まで、古墳文化の南限は九州島までと、先史時代においては日本列島で展開された文化の南限は北上していった。南西諸島の島々は古代国家によって「南島」として認識されたが、大隅諸島には8世紀初頭に多褹嶋という特殊な行政区画が置かれ、内国化された。9世紀に多褹嶋は廃止されて大隅国に併合されるが、吐噶喇列島以南の島々とは継続して交易が行われた。中世には、キカイガシマやイオウガシマが日本の「南」の境界として認識されるようになり、鎌倉時代には吐噶喇列島までが「十二島」として支配されるが、奄美群島については領域的な支配は行われなかったようである。一方、この頃になると奄美・沖縄・先島においても政治的統合が進み、グスク時代が幕を開ける。沖縄島では三山の勢力が鼎立するが、15世紀に中山王尚巴志が三山を統一し、琉球王国が成立する。琉球王国が奄美群島や先島諸島をも支配したことで、吐噶喇列島と奄美群島の間が日本との境界となった。1609年に琉球王国は薩摩藩によって征服され、以後、中国の冊封を受けつつ薩摩藩に支配されるようになり、「幕藩体制のなかの『異国』」として扱われた。また、奄美群島については薩摩藩の直轄地とされた。江戸幕府滅亡後、明治政府は琉球処分を行い、琉球王国を滅亡させて沖縄県を設置し、南西諸島全体の内国化を図った。アジア・太平洋戦争での敗戦により、吐噶喇列島以南は行政分離されて米軍の施政下におかれたが、1972年までの間に南西諸島は段階をおって日本に返還された。以上のように、南西諸島は現在では日本の国土の一部とされているが、歴史的に日本の「南」の境界は南西諸島のなかで遷移しており、一貫して日本の国土として認識され続けたわけではない。はじめに 〜なぜ「鳥島」は入っているか?〜「鹿児島県の最南端の島」を問われた時に、「与論島」と答えられる人は少なくないだろう。では、「沖縄県の最北端の島」を聞かれたらどうだろうか。与論島と沖縄島最北端の辺戸岬は約23kmしか離れておらず、天気が悪くなければ互いに簡単に視認できる。そのため、沖縄県の最北端は「沖縄島」であると思う人は多いかもしれない。もう少し沖縄の地理に詳しければ、与論島とほぼ同緯度にある伊平屋島が沖縄県最北端の有人島であるという知識があるかもしれない。しかし、「最北端の島」となると実は、沖縄島の北方約110km、徳之島の西方約65km、沖永良部島の北西約65kmに位置する硫黄鳥島ということになる。この島は距離的には奄美群島の方が近いにもかかわらず、沖縄県の管轄となっている。さて、この硫黄鳥島について、日本近代史の泰斗である鹿野政直は「『鳥島』は入っているか」1「日本」の境界としての南西諸島の歴史的展開柿沼 亮介
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