早稲田教育評論 第37号第1号
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な教育上の意義を見出して臨海教育を企画していたといえる。さらに、中田は「殊に教師が児童生活の研究の機会を得る点から眺めても絶好の機会だと思はれる。今単に毎日の身体検査に依って得た数量的方面からのみ考察しても一部の外面観ではあるが猶ほ其効果を明瞭に物語るものがある。」と述べ、臨海教育を、教員が児童生活を研究する場とも位置付けていた。24時間の協働生活がなされる臨海教育ならではの意義といえる。なお、教員として、中田をはじめ、訓導11名、県学校衛生主事1名が参加していた。また、訓導らは、庶務、水泳、衛生・娯楽、炊事、会計、記録等の分掌を持ち、組織的な運営がなされている43。次に、参加児童の実態から、附属小学校の臨海教育の特徴を検討する。臨海教育の募集時には、全校児童の5分の1に該当する約100名から申し込みがあったという。その後、参加者の選定を行い、実際に「林間学校」に参加した児童は、附属小学校の3年生から6年生まで計52名であった。その内訳は、3年生13名(男児7名、女児6名)、4年生9名(男児9名)、5年生16名(男児12名、女児4名)、6年生14名(男児6名、女児8名)の合計52名(男児34名、女児18名)であり男児の参加者が多めであった。参加者の選定においては、学校衛生主事及び校医による「身体検査」を通じて参加者を決定している。結果、10名の児童が参加不可となった44。具体的には、耳の疾患のある児童4名や腸に疾患のある児童2名のほか、海浜生活に適さない「薄弱」の児童2名も含まれている。身体虚弱などを参加の要件とせず、健康上の理由から10名を参加不可にするなど、比較的に健康な児童を対象としたか、もしくは健康な児童と虚弱児童が混在していた可能性が高い45。また、参加費用は10日間で7円と当時として高額であり、富裕層の児童が中心であったと考えられる46。『富山新報』の記事でも、「児童の家庭は大部分上流であって」と報じており、参加者は裁判所長、軍少佐、病院長のほか「実業家方面でも済々たる家庭の愛児等を網羅してゐる」という47。さらに、同じ記事では、参加児童が「坊チャン嬢チャン育ち」であり、附属小の教育方針が「誤つた自由教育主義である」ため、効果を疑問視する声も掲載された。実際、保護者からは、「児童に用ひしむる藁布団を吟味して貰はぬと子供の体が痛むまいかと案じ」る声が出たり、「夜小便には是非教員の附随を希望したもの」「夜間だけ別に宿泊せしむるといふ誤連中も少なくなかった」と報道されている。これらの批判からは、大正期の自由主義的な新教育や、この時期に試みられ始めた新しい教育活動である「林間学校」に対する疑念があったことも窺える。以上、教育目的、臨海教育に見出した教育的意義、参加児童の身体的・経済状況などから総体的に考えると、附属小の臨海教育は虚弱児童の養護中心の実践とは異なるものであった。それは、心身の積極的鍛錬や、自然生活を通じた体験的な学習、協働生活や社会生活を通じた自治の実現など、幅広い教育目的をもつ総合的な学習としての性格が強い実践であったといえる。(2)師範附属小の臨海教育における活動つづいて、臨海教育の活動を検討し、その特質を分析する。大正期の「林間学校」、とりわけ欧米の実践をモデルとした「林間学校」は、「運動」「栄養」「休養」の3種の活動を柱としてプログラムを構成することが多かった48。附属小学校の臨海教育の活動はどのようであったのだろうか。その日課を示せば表1のようであった。表に示した活動の内、臨海教育の中心的活動は水泳練習であった。水泳練習は、参加児童を5・63

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