早稲田教育評論 第37号第1号
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1.明治期・大正期における富山県内の「野外における教育」(1)明治期・大正期の富山県内の「野外における教育」の実施状況弱児童向けに実践されることが期待され、形態・内容も欧米の虚弱児童向けの施設・実践をモデルに実施することが奨励される。この結果、軽度な「運動」、給食による「栄養(営養)」補給、慰安的な生活を通じた「休養」を主軸とするなど、全国で一定の形式を共有しながら実践が展開された。一方で、財政的な支援が十分ではない明治後期・大正期の「林間学校」は、受益者負担を前提としたために、虚弱児童の中心を占めた貧困層の家庭の児童が参加しづらい状況にあった。このため、富裕層の健康な児童向けに、心身の鍛錬や学習を主目的とする実践が行われることや、虚弱児童と健康な児童が混在して実施されることも多かった。すなわち、虚弱児童向けの養護中心の実践が奨励されつつも、実態としては、多様な教育目的に基づき実践が展開されていたのである。とりわけ、香川県や京都府など、欧米型の「林間学校」の影響を受けながらも、明治後期から大正初期に地域内で実施された「野外における教育」を基盤に海外の実践を受容し、独自性をもつ「林間学校」が展開された事例もみられる6。富山県内においては、どのような過程をたどり「野外における教育」や「林間学校」が試みられ、発展を遂げたのであろうか。ここで、明治期から大正期における「林間学校」や「野外における教育」の先行研究を検討する。先ず、「林間学校」についての研究を見れば、虚弱児童対策として奨励された背景もあり、特別支援教育の観点からの研究が中心である7。だが、先に述べたように、地域独自の「野外における教育」実践と結びつき、多様な教育目的をもって実践された事例もあるため、今後は、体験的な教育など、児童の学習活動の観点からの研究を進めることも重要と考えられる。さらに、研究対象の地域も限定されており、「林間学校」の全国的な発展の動向も明らかでない8。このため、さらなる事例研究を積み重ね、各地の実施状況を明確にする必要があるといえる。また、「野外教育」や「野外における教育」の史的研究も十分ではなく9、富山県内の事例についても、その史的発展の概要10や、立山登山の特質11について論じられるに留まっている。特に、本論文で対象とする富山県内の「林間学校」実践については、『富山県教育史』で概要が明らかにされているだけで、その検討も十分ではない12。そこで、本論文では、明治後期から大正期にかけて富山市内の小学校が実施した「野外における教育」や「林間学校」の実態及び特質を究明する。史料としては、富山県立図書館、高岡市立中央図書館が所蔵する学校関連資料や『富山教育』などの教育雑誌、『富山日報』『高岡新報』『北陸タイムス』等の新聞記事を分析の対象とする13。本節では、主に明治中期から後期、大正期における富山県内の教育界の動向や、「野外における教育」の実施状況について検討する。明治20年代から30年代の富山県においては、学校行事の発展に伴い、遠足運動、校外教授、修学旅行、学校園などの「野外における教育」が実施されていた。とりわけ明治30年代後半には、校外教授・修学旅行などが量的発展を遂げると共に、水泳や夏期の学校召集が実施されるなど、大正期の「林間学校」のプログラムを構成する種々の教育活動や類似する教育活動について、一定の経験の蓄積されたことが分かる。さらに、これらの経験の蓄積は、量的のみではなく実践面からも確認できる。すなわち、明治後期から大正初期の富山県では、理科や地理歴史に関する知58

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