早稲田教育評論 第37号第1号
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註1 Bathily, Abdoulaye, Mai 1968 à Dakar ou la Révolte Universitaire et la Démocratie, Le Sénégal cinquante après 3 Goerg, Odile et Raison-Jourde, Françoise, Les coopérants français en Afrique, Portrait de groupe (années 1950-4 西川潤編『アフリカの独立 ドキュメント現代史12』平凡社、1973年、19-20頁。5 宮本正興、松田素二編『新書アフリカ史 改訂新版』講談社現代新書、2018年、513-514頁。6 西川潤編、前掲書、20頁。7 フランスが植民地に導入した通貨圏。「アフリカ諸国の外貨準備のかなりの割合をフランス国庫に預ける代わりに、アフリカの通貨をフランスフラン(ユーロ誕生後はユーロ)に固定レートで維持することをフランス国庫が無制限に保証するという特殊な制度」で成り立っている(日本アフリカ学会編『アフリカ学事典』昭和堂、2014年、253頁。)。8 Manière, Laurent, op. cit., p.163.9 谷口利律「仏領西アフリカにおける独立前後の教育改革─ジャン・カペルの教育理念との関連か2 Manière, Laurent, La politique française pour l’adaptation de l’enseignement en Afrique après les indépendances (1958-1964), Histoire de l’éducation ■En ligne■, 128 | 2010, mis en ligne le 01 janvier 2014, consulté le 20 mai 2021.おわりに付 記本研究はJSPS科研費 JP20K02617の助成を受けたものである。ら─」『早稲田教育評論』第36巻 第1号、pp.105-121、早稲田大学教育総合研究所、2022年。10 Capelle, Jean, L’Éducation en Afrique noire à la veille des indépendances, 1946-1958, Éditions Karthala et 54ユネスコはアディスアベバ会議やタナナリブ会議において、アフリカ間での教育協力や多国間教育協力を目指した。しかし、教育支援は基本的に二国間援助で行われ、1960年から1964年の間、旧フランス植民地の教育支援の約80%を宗主国であったフランスが担っており58、他国の援助が介入することは稀であった。また、植民地時代に教育の専門家として活躍した人物が、植民地の独立後は国際機関における教育の専門家へと転身したことも指摘されている59。独立直後の段階においては、教育の内容的側面であれ、政治的側面であれ、旧宗主国との関連性を完全に断絶することは不可能であった。特にフランスから独立して間もない1960年代は、教育や政治・経済などのあらゆる面でアフリカ側の専門的人材が不足しており、旧宗主国であるフランスの援助に頼らざるを得ない状況にあった。教育分野でのアフリカ諸国とフランスとの密接な関係は、植民地教育の管理が終焉を迎えた後も、すべての教育段階で依然として続いていたといえる。冒頭で述べた通り、1968年以降のセネガルでは「セネガル化」を求める抗議運動が活発に行われるようになった。これが影響し、フランスから援助協力を目的として派遣される国民活動ボランティアの数は1970年代には減少傾向に転じる。1970年代以降、教育における旧宗主国の直接的な介入が減少していく中で、西アフリカ諸国は自国の教育の「アフリカ化」をどのように捉え、進めていこうとしたのだろうか。これについては今後の研究課題としたい。1990), Cahiers Afrique n° 28, L’Harmattan, 2012.Deuxième édition revue et augmentee, Harmattan, 2018.

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