早稲田教育評論 第37号第1号
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3.教育援助における「アフリカ化」の位置づけユネスコによるプロジェクトを除くと、コートディヴォワールにおける教育内容の改訂やマリの農村化プロジェクトなどがフランスによって行われているが、いずれも詳細は不明である。このほかに、教科書の作成や歴史等社会科科目の教育内容の変更などの支援が行われてはいるものの、「アフリカ化」に向けた支援は非常に限定されたものであったと言える。アディスアベバ会議やタナナリブ会議で提言された内容を総じて見ると、就学者数や学校数の増加という観点からはおおよそ実現困難な目標が掲げられていた。1961/62年度の西アフリカの高等教育の就学状況は、本稿の第II節で述べた通り、最も高い数値のセネガルにおいても0.5%であり、0.1%に満たない国もあった。高等教育への進学が限られていた状況と照らすと、タナナリブ会議で提唱された1.5%の就学率の実現は、非常に野心的な目標であった。ユネスコの提示した就学目標の数値は、すべての教育段階において、実現が危ぶまれるほど高く設定されていたと言える。アフリカの社会・文化に適応した教育を行う「アフリカ化」という概念の提唱は、植民地が独立をなし得たからこそ生まれた、新たな視点であった。ただし、この「アフリカ化」が、真にアフリカの社会経済の発展に貢献しうるものと考えられていたかについては疑問が残る。例えばマリの政策に関しては、かねてから、経済・社会的な制度を「アフリカ化」することについて意見が分かれていた。1959年7月のマリの政策に関する議論のなかで、セネガルのママドゥ・ジャ(Mamadou Dia)は、適切な訓練を受けたアフリカ人幹部が十分にいない中で、「安価なアフリカ化」という政策を進めることに反対し、教育政策をアフリカ化することの実現性の低さを指摘した56。しかし、マリのモディボ・ケイタ(Modibo Keita)は、政治をアフリカ化することこそが重要であると反駁し、アフリカ独自の政策の必要性を説いた57。植民地期に継続的に構築されてきた公的な社会システムの中に、それまで希薄であった「アフリカ」という概念的要素を組み込むことに対しては、当事者であるアフリカの人々の中でも意見が分かれていたのである。ユネスコによって提唱された、西アフリカにおける教育の「アフリカ化」が、はたして真にアフリカの人々から求められるものであったのかについては検討の余地がある。あるいは、独立直後という過渡期ならではの政治的パフォーマンスが先行した結果、確たる内実をともなわないまま、言葉だけが一人歩きをした傾向があることも否めない。また、西アフリカの教育援助の大半を担ったフランスが援助のなかで行った「アフリカ化」は、教材開発を中心とする表面的な分野に留まった。確かに、植民地期と比較するならば、教育内容や教材の内容がアフリカの状況をより踏まえたものに修正されたと言える。しかし一方で、「外国語」と位置付けられてはいるものの、学校教育でフランス語を用いるという姿勢は植民地期から保持し続けている。教育の「アフリカ化」を達成するために最も必要であると思われる、アフリカの人々の母語に関しては等閑視されており、学校教育への導入の支援も行われていない。フランスは教育援助に際して「アフリカ化」という文言を利用しつつも、実態をともなった「アフリカ化」には着手しておらず、教育をめぐるフランスと旧植民地である西アフリカ諸国の関係性は、独立後も大きくは変化しなかったのである。53

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