早稲田教育評論 第37号第1号
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の交渉を行う権限が与えられた44。協力省が援助・協力活動を行う対象は、設立当初こそ、サハラ以南のアフリカ諸国とマダガスカルのみであったが、次第に対象を広げ、1990年代には、英語圏やポルトガル語圏のアフリカ諸国、カリブ海地域の国々にまでおよんだ45。アフリカ諸国の独立後、フランスは旧植民地との間に二国間協定を締結することで、協力体制の確立と維持を目指した。1960年以降は、西アフリカ諸国の教育分野への関与を特に強め、1960年7月のフランス・マダガスカル協定、1961年4月23日における協商会議(Conseil de l’entente)4加盟国(コートディヴォワール、ニジェール、オート・ボルタ、ダホメ)とフランスとの協定、1961年12月の中央アフリカ4共和国(コンゴ、ガボン、中央アフリカ共和国、チャド)との協定など、旧植民地との間に立て続けに協定を結んだ46。この二国間協定では、外交、防衛、通貨問題、経済・金融政策、司法、教育、国際輸送機関、電気通信分野など、ほぼすべての分野に及んでフランスによる財政援助が行われることが約束された反面、支援の条件として、旧植民地のフラン圏への参加や、フランスとの政策的見解の調和などが求められた。二国間協定は、事実上、旧宗主国であるフランスと旧植民地であるアフリカ諸国との不可分な関係が継続していることを裏付けるものであった47。フランスのアフリカにおける援助・協力に必要な資金に関しては、大部分が、上述の援助・協力基金から支払われており、多様な用途の協力資金が出された。それらは、技術支援のための組織運営費や技術協力者の滞在費に対する補助金、奨学金、行政サービス運営のための対象国への予算援助、対象国内に常駐する教師や技術者等のフランス人支援スタッフのための支出といった、援助協力にかかる一連の運営資金のほか、文化センターや継続的な援助に必要な建物の建設費、対象国の利益となる投資に必要な資金などもあった48。これらの広範囲にわたる援助内容のうち、教育が占める割合は1960年以降、年々、増加しており、1959年の5.4%から、1964年には29%になり、1968年には37.5%に上っている49。教育分野での援助に関しては、協力省内に設置された文化・技術協力局(la Direction de la coopération culturelle et technique)が文化協力協定の実施面を担当した。同局の教育協力における優先的な目標の一つに、フランス人教員を各国に派遣することがあり50、多くの教職員がアフリカに赴任した。教職員として派遣する人材のうち、フランスの公務員である教員を採用する場合には、国民教育省に出向を仰ぎ、公務員でない場合は、文化・技術協力局が直接採用した51。同時期のオート・ボルタの中等教育におけるフランスの教育援助に関して研究を行ったウエドラオゴ(Ouedraogo)によると、フランスの国民教育省から技術支援のために出向したスタッフとして、上級資格であるアグレガシオン(agrégation)やセルティフィカシオン(certification)、もしくは学士号を有する教員がおり、このほか、学士号教員助手、学士号を有しない臨時講師が派遣されていた。彼らは、「民間援助協力員」(coopérants civils)と呼ばれ、その他の技術支援員と区別されていた。1964年には、技術援助に兵役免除者が新たに加わるようになったが、彼らは当初「援助協力役務員」(service militaire en coopération)と呼ばれ、1967年に「国民活動役務員」(Service national actif)となり、その後「国民活動ボランティア」(Volontaires du Service national actif)と呼称されるようになった52。フランスからオート・ボルタへ派遣された技術支援スタッフのうち、教員が占める割合は196050

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