早稲田教育評論 第37号第1号
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プログラムを発足し、次に、教育および国家の社会的、政治的、経済的活動においてアフリカの言語を優先させるという政治的決断が必要であるとしている。さらに、アディスアベバ会議の最終報告を見ると、アフリカ諸言語は、特に成人に対する識字教育に用いることが勧められていることを読み取れる。例えば、熱帯アフリカ地域に関して、「熱帯アフリカのほとんどの国では、数多くの言語があり、そのすべてを識字のために使用することは不可能である」としつつも30、学校教育のための言語の選択とは異なり、成人への識字教育は各国の状況に応じて母語による読み書きが適切な場合があるとされている31。同時に、識字教育で用いる言語を決定するために、国際機関の援助も受けつつ、言語学的、教育学的な研究が実施されるべきであるとしている。しかしながら、児童生徒を対象とした学校教育においては、教授言語としてアフリカの諸言語を導入することに対する明確な言及はなされていない。この事実からは、アディスアベバ会議の参加者たちは、アフリカの「文化」としての言語を学校教育に取り入れることにかならずしも前向きなわけではなかったことがうかがえる。むしろ、アディスアベバ会議で議論されたアフリカの「文化」は、学校教育で教えられる歴史や地理により重点が置かれた。教育内容の改革に関する項目では、古典的な「死語(dead language)」の教育に割く時間を減らし、「旧宗主国がアフリカやアフリカの需要とあまり関係のない歴史や地理を教えることを優先していたのをやめさせるべきである」と述べられている32。歴史や地理などの科目内容をアフリカの状況に沿うよう修正することが強調され、「アフリカの経済・社会的需要」や「アフリカの文化」に教育を「適応」(adapt)させるため、教科内容を根本的に見直すことが必要であるとされたのである33。ところで、フランス植民地期の仏領西アフリカでは、1930年代を中心として教育の現地への「適応」(adaptation)の名目で、西アフリカの村落部居住者の大部分が従事している農業を学校教育に取り入れた農業教育が実施されたが、これは、初等教育機関における農業労働の実質的な義務化をともなうものであった34。第二次世界大戦後の教育改革では、この農業教育が大幅に見直され、フランスと同様の近代教育が導入されることになった。それは、当時の植民地教育を一手に掌握していた海外フランス省(旧植民地省)への批判もあいまって行われた改革であった。アフリカ諸国独立後のアディスアベバ会議において、これとはまた異なる脈絡で同じ「適応」の語が用いられたことは、ひとつの歴史的な皮肉と言えるかもしれない。さて、アディスアベバ会議で出された教育計画はどの程度実行されたのだろうか。この点をめぐり、アフリカ諸国独立前夜のユネスコの教育支援とアディスアベバ会議に関して研究したマタシ(Damiano Matasci)の論文を参照すると35、ユネスコによって、経済、統計、比較教育、学校管理などの専門家からなる支援チームが作られ、1961年7月、モントリオール大学の人員で構成される最初の支援チームがオート・ボルタに派遣されるなど、一定のフォローアップは行われたようである。しかし、当時のユネスコには中・長期間にわたってこの計画の実施・遂行を支援する力は存在していなかったという。アフリカ諸国の教育の未来像を理想的に提示して、教育開発に関する気運を高めることには成功したが、現実は理想にほど遠く、アディスアベバで策定された計画に関する発言や言及はアフリカ諸国の政府のみならず、国際機関においても徐々に省みられなくなっていった36。アディスアベバ会議での計画目標はきわめて高い数値目標が設定されて47

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