1.国際機関による教育支援 考えられる。いずれの場合においても、独立直後の西アフリカにおける就学率は、初等教育から高等教育に至るまで低水準にあり、こうした教育状況の改善を目指して、国際機関や各国援助機関による教育援助が開始されていくのである。アフリカ諸国に対する近代学校教育の普及と改善に取り組んだ代的機関として、1945年に設立されたユネスコがある。ユネスコの初代事務局長には、英国植民地高等教育委員会の委員として英領西アフリカ地域で調査研究活動に携わった経験を有し、また、世界市民教育協議会(the Council for Education in World Citizenship)の評議員であった生物学者のハクスリー(Julian Sorell Huxley, 1887-1975)が就任した13。ハクスリーは、生物の進化のためには多様性こそが必要であるという進化論の解釈を援用し、社会や人類の進歩のためには多様性を尊重する必要があること、多様性の中で共通概念としての「ひとつの世界」(one world)の確立を目指すべきことを提唱した14。他方、ハクスリーは、「国家主義的な民族自決が競争と戦争に繋がる」と強調し、「平和と安全を促進するために、国家の分離が進むことを防がなければならない」と主張し、第三世界の脱植民地運動とは逆行する姿勢を見せるなど15、多様性を尊重する姿勢とはかならずしも相容れない帝国主義的な思想の持ち主でもあった。ハクスリーの思想や創設当初のユネスコの理念を分析したスルガの研究16では、ハクスリーは、「第二次世界大戦後の革命の時代に生きながらも、19世紀末の帝国の過去から政治、社会、文化の変化の定義を引き出した」とし、当時のコスモポリタリズムの複雑性を指摘している17。つまり、ハクスリーの主導する創設当初のユネスコでは、戦前の帝国主義的思想の影響を完全に脱却できぬまま、戦後の世界に必要な新たな国際理想主義として「一つの世界」という概念が掲げられ、その中で、あるべき教育の形が模索されたのである。ほかにも、1946年から1948年にかけて開催されたユネスコの会議に、仏領西アフリカで教育総視学官を務めたアルベール・シャルトン(Albert Charton, 1893-1980)や英領植民地の植民地教育関係者が専門家として参加していることからも18、当時のユネスコは植民地主義からの思想的な脱却がいまだ困難な時期にあったことがうかがえる。「一つの世界」という概念が閑却されるには、脱植民地運動が本格化する1950年代を待たねばならなかった。帝国主義の時代を経験したハクスリーや、西アフリカにおける植民地教育行政官経験者の植民地主義思想が、第二次世界大戦後にどのように変化し、それが当時のフランスの植民地支配にどのように影響したのかは多角的に検討する余地があるが、本論の主題と離れるため別稿に譲る。さて、第二次世界大戦後は、実働的な教育援助活動に関しても、いまだユネスコ等の国際機関の役割は大きくなかったものの、1949年を境に変化が生じた。同年に国連が拡大技術支援計画を策定し、ユネスコにも援助資金が配分されたのである。ユネスコに技術支援の要請を出すことができるのは、加盟国、非加盟国、信託統治領、非自治統治領と規定され19、いまだ、ユネスコに加盟していないサハラ以南のアフリカ地域に対しても、直接的介入が比較的容易になった。これに対し、アフリカの宗主国および植民地の計6カ国(ベルギー、ローデシア・ニヤサランド連邦、フランス、ポルトガル、イギリス、南アフリカ連邦)は、1954年に「サハラ以南アフリカに44
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