Ⅰ.西アフリカ諸国独立の政治的背景ることが推奨された。しかしながら、いわゆるフランス型の学校教育が植民地政府によって長期間運営されてきた西アフリカにおいて、教育の「アフリカ化」を現実に進めることは容易ではなかった。本稿の目的は、独立直後の西アフリカの教育改革──特に教育の「アフリカ化」──が、国際的な援助やフランスの教育援助の中でどのように捉えられ、また、その実現に向けて、どのような施策が講じられたのかについて明らかにすることにある。同分野における先行研究としては、西アフリカ独立前後のフランスの教育援助を分析したマニエールの研究や2、また、アフリカへの援助協力を目的として民間から派遣された支援員の存在に着目して、多岐のテーマを検討したグールらの論集3などがある。いずれの研究からも、旧仏領西アフリカと旧宗主国フランスとの植民地期以来の関係性が継続していることが明らかにされているものの、西アフリカの教育援助をめぐる旧宗主国との関係性の中で、教育の「アフリカ化」という、教育の脱植民地化を目指す理念と実践がどのような位置づけにあったのかは未検討のままである。本稿では、西アフリカを対象としたユネスコによる国際援助およびフランスによる二国間教育援助の実施体制と内容を分析し、両援助の共通性と差異性を検討する。いわゆる「アフリカの年」にあたる1960年には、アフリカ諸国の独立を契機として、教育の発展に向けた国際的な支援が開始される。それ以後、国際機関やフランスによる独立後の西アフリカへの教育援助が、教育の「アフリカ化」を達成するうえでどのような作用を及ぼしたのかを本稿で分析する。なお、本研究が対象とするのは、旧仏領西アフリカを構成した地域(現在のギニア、コートディヴォワール、セネガル、ニジェール、ブルキナファソ、ベナン、マリ、モーリタニア)である。また分析に際しては、1960年代にユネスコから発行された報告書や、フランス政府発行の国際援助に関する公文書、および、西アフリカの教育援助を対象とした国内外の先行研究を資料として用いる。1946年10月27日に公布されたフランス第四共和国憲法では、フランス本国と海外県、海外領土、協同国家、協同領土から成るフランス連合(Union française)が成立したが、その後のアジア、カリブ、アメリカ、アフリカにおける反植民地運動の高まりを受けて、1958年10月4日の憲法により、フランス連合に代わる、フランス共同体(Communauté française)が設立された。フランスの植民地のほとんどが加盟するこのフランス共同体では、仏領西アフリカという単一の行政単位が国家単位に分割され、内政に関しては各国に大幅な自治権が認められた。しかしながら、防衛、外交、通貨などの重要事項に関しては、共同体の管理事項とされ、また、フランス共同体の大統領をフランス大統領が務めるなど、依然としてフランスとの従属関係が続いた4。フランス共同体への加盟の是非は、各国の国民投票によって決定された。ギニアでは、国民投票で95%の国民がフランス共同体への加盟に反対票を投じ、フランスの植民地の中で唯一、1958年に即時独立を果たした。フランスはギニアの独立への報復として、すべての援助の打ち切りや、官吏の引き上げ、既存の行政機構を機能停止させるなどの措置を講じた5。こうして、後のギニアの初代大統領であるセク・トゥーレ(Ahmed Sékou Touré, 1922-1984)が、「隷従のなかの40
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