はじめにキーワード:西アフリカ、教育、教育援助、格差【要 旨】本稿の目的は、独立直後の西アフリカの教育改革──特に教育の「アフリカ化」──が、国際的な援助やフランスの教育援助の中でどのように捉えられ、また、その実現に向けて、どのような施策が講じられたのかについて明らかにすることにある。多くのアフリカ諸国が独立した1960年代には、アフリカにおける教育の普及と改革に向けた国際的な気運が高まりを見せた。その契機となったのが、ユネスコが開催したアディスアベバ会議とタナナリブ会議である。両会議では、教育の具体的な数値目標が設定されるとともに、教育内容をアフリカの社会文化に根差したものにするという、教育の「アフリカ化」が提唱された。しかしながら、西アフリカにおける教育援助の大部分は旧宗主国であるフランスとの間に結ばれた二国間協定に基づき、フランスが実施した教育援助の実施内容は、教育の「アフリカ化」からは程遠いものであった。教育をアフリカの社会・文化に適応させるという「アフリカ化」の理念は、植民地が独立をなし得たからこそ生まれた新たな目標であった反面、独立直後という過渡期ならではの政治的パフォーマンスが先行した結果生み出された概念である可能性もある。この場合の「アフリカ化」が、はたして真にアフリカの人々から求められるものであったのかについては検討の余地がある。また、旧宗主国フランスは教育援助に際して「アフリカ化」を尊重する姿勢をとりしつつも、実態をともなった「アフリカ化」には着手しておらず、教育をめぐるフランスと旧植民地である西アフリカ諸国の関係性は、独立後も大きく変化しなかったのである。本稿の対象であるフランス語圏西アフリカ諸国は、1960年までに宗主国であるフランスからの独立を果たした。しかし、独立を契機として自立運営が目指されるはずの社会・経済等のあらゆる分野において、旧宗主国出身者が主要な地位を占めつづけた。1968年には、ダカール大学において、大学の「セネガル化」を目指す学生運動が起こり、これが社会運動となって拡大していった1。旧宗主国からの脱却を希求するこうした運動がある一方、教育分野では、ユネスコによって開催された1961年のアディスアベバ会議および翌年のタナナリブ会議において、いち早く教育の「アフリカ化」(Africanization)の必要性が提唱されていた。そこでは、カリキュラムや教材をアフリカの文化・社会状況に合わせて改革すべきこと、独立後のアフリカ諸国の教育は、アフリカの社会的需要を満たすものでなくてはならないことが指摘された。また、これを実現すべく国際社会には、アフリカ諸国に対して、教材開発やカリキュラム開発といった教育援助活動を実施す39─国際援助、二国間援助と教育の「アフリカ化」に着目して─独立期西アフリカにおける教育援助谷口 利律
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