1.先行研究も情緒も責任も密集化する「徹底育児」(intensive mothering)の規範が中国社会に浸透した結果、母親の育児不安の原因の1つであると指摘されている2。また、仕事と育児の両立から生じる葛藤と家庭内の性別役割分業に焦点をあて、現代中国女性の育児不安を引き起こす理由を究明しようとする研究も見受けられる3。先行研究の多くは、現代中国の育児不安の問題に焦点をあてて研究を行われているが、歴史的な視点から母親役割期待の変容にともなう現代中国女性の育児不安を捉える研究が管見の限り見受けられない。歴史的な経緯を見れば、1949年の中華人民共和国(以下:新中国)成立以降、これまで大きな社会変革が行われてきた。計画経済時代(1949〜1977)4の中国においては、「集団保育5」という児童公育の環境の形成により、子育てが家庭だけの責任ではなく、国全体の責任として捉えられたことから、家庭の育児負担が軽減された。その一方、1980年代以降、市場経済体制6への移行に伴い、「一人っ子政策7」の実施により子どもの数が減少し、2000年代以降の中国においては計画経済期に充実していた「集団保育」の環境が失われ、育児は家庭の責任として捉えられるようになり、子育ての私事化が急速的に進んできた。新中国成立以来の各歴史時期において、それぞれの時代の社会的環境の変化に伴い、母親に対する役割期待は大きく変化してきた。また、異なる時代を生きた女性が受けた母親役割規範の差異によって、世代間の子育て観と子育てスタイルにも大きな差異が生じてきたと予測できる。そのため本論文では、新中国成立以降に子育てをしていた3世代の女性に向けてインタビュー調査を実施し、それぞれの時代の母親としての役割規範と子育てスタイルの変容を解明することで、なぜ2000年代以降の中国において、母親の育児不安が社会問題化したのかを分析する。現代中国の育児不安に関する先行研究については、2010年代から増加傾向が見られる。育児不安に関わる研究には、例えば安(2020)、施(2018)と楊(2018)がある。これらはアメリカの研究者が提唱した「徹底育児」(intensive mothering)規範が中国でも受容され、子どもを中心として、情緒も時間も責任も密集化する子育てスタイルの形成により、母親の子育て不安が上昇したと指摘した8。また、金(2013)と佟(2011)は、現代中国の職業母に対する分析から、教育市場化の進行と男女役割分業の定着により、現代中国女性の仕事と育児の両立には多くの困難があると指摘した9。その一方、範(2021)は、高学歴の母親に対するインタビュー調査を行い、仕事と育児のせめぎ合いを生きる高学歴の母親が、どちらの役割を優先的に遂行したとしても顕著な葛藤を抱えてしまい、二本立ての形で「仕事と育児の両立」を追求するのを諦めることで、役割間の葛藤を回避しようとしていることを明らかにした10。新中国成立以降の母親像の変遷について、鄭(2022)は、計画経済時代(1949〜1980)、市場経済時代(1980〜2000)とグローバル時代(2000〜2020)という3つの時期に分けて母親像を再考した。計画経済時代では、仕事を優先する「職業母」が理想的な母親像であったが、市場経済時代になると、子どもの教育に専念する「教育ママ」が理想的な母親像となった。さらに、グ24
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