早稲田教育評論 第37号第1号
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台湾割譲により、日本と台湾の中間にある琉球の帰属が日本に帰することを清が認めざるを得なかったことによってである」[千葉 2014]とし、塩出浩之は「日清戦争の結果、下関条約(1985年)で中国は朝鮮の独立自主を認め、台湾を日本に割譲した。これにより中国は琉球復国を要求する余地をも失い、日本は琉球諸島を完全に主権下に置いた」[塩出 2014]とする。66 琉球諸島が日本領であることを清が正式に認めたのが下関条約であるとするならば、この条約によって大日本帝国は台湾をも領有することになるため、与那国島と台湾との間の境界は消失することになる。その意味では、南西諸島全域が日本領となった段階で、「南」の境界は一気に台湾まで南下することになるのであり、与那国島と台湾の間に現代的な意味での「国境」が引かれるのは、1972年の沖縄返還ということになる。67 戦後に米軍によって北緯30度線で境界が引かれたように、戦時中、日本軍は南方への連絡路の防衛と本土防衛を分ける境界を北緯30度とし、沖縄を「本土」防衛から切り捨てるラインとした[ラドミール 2021]。日本軍にとっても米軍にとっても、大隅諸島と吐噶喇列島の間が戦略上の境界とされたのである。68 『毎日新聞』1952年9月27日付朝刊69 『朝日新聞』1952年9月27日付朝刊70 沖永良部島と与論島が返還されない場合、北緯27.5度のラインが「国境」となることになる。71 [和泊町誌編集委員会 1985]72 [奄美市立奄美博物館 2021]はリニューアルした奄美博物館の公式ガイドブックという扱いであり、本稿でも多く参照させていただいた。73 種子島については鉄砲伝来についての、屋久島についてはシドッチが潜入したことについての記述がある。21

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