饗二多禰嶋人等於飛鳥寺西槻下一。饗二多禰嶋人等于飛鳥寺西河辺一。奏二種々楽一。 同 天武天皇十年(681)九月庚戌(14日)条 同 天武天皇十二年(683)三月丙午(19日)条遣二多禰一使人等返之。 とあるのがアマミの初見であり、7世紀半ばの段階でヤマト政権は奄美大島の存在を認識してはい 同 大宝二年(702)八月朔条20 『日本書紀』天武天皇八年(679)十一月己亥(23日)条大乙下倭馬飼部造連為二大使一。小乙下上村主光父二為小使一、遣二多禰嶋一。仍賜二爵一級一。21 [柿沼 2017]22 『日本書紀』斉明天皇三年(657)七月己丑(3日)条に、覩貨邏国男二人女四人、漂二泊于筑紫一。言、臣等初漂二泊于海見島一。乃以レ駅召。たようである。23 『続日本紀』文武天皇四年(700)六月庚辰(3日)条薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君県、助督衣君弖自美、又肝衝難波、従二肥人等一、持レ兵剽二劫覓国使刑部真木等一。於レ是、勅二竺志惣領一、准レ犯决罰。薩摩・多褹、隔レ化逆レ命。於レ是発レ兵征討、遂校レ戸置レ吏焉。24 薩摩国や多褹嶋の成立については、[永山 2007a][永山 2009b]を参照。25 [永山 1985][柿沼 2021a][柿沼 2021b][柿沼 2022]26 『続日本紀』霊亀元年(715)正月朔条に「夜久」からの朝貢がみえることから、屋久島については当初、多褹嶋の領域ではなかった可能性がある[山里 1996]。しかし、『続日本紀』天平五年(733)六月丁酉(2日)条に、「益救郡大領外従六位下加理伽」らに「多褹直」姓を賜う記事があることから、733年までには多褹嶋に編入されたものと考えられる。[柿沼 2022]27 一般に石垣島のことであるとされる。しかし、大隅諸島〜沖縄諸島の間は、天候などが良好である場合には視認が可能で、古代の航海技術でもある程度安定的な往来が可能であったと考えられているものの、沖縄諸島と宮古島の間は視認することができず、海流も速いことから、安定的に往き来できたとは考え難い。さらに、間にある沖縄島や宮古島を飛ばして、いきなり石垣島からの来朝があるというのも不審といえる。更なる検討が必要である。28 [山里 2004]29 [永山 2018][柿沼 2021a]を参照。30 天平七年に大宰大弐であった小野老が高橋連牛養を南島に派遣して「牌」を立てさせ、それを天平勝宝六年に中央政府の命令で大宰府に修理させたということであり、ここに多褹嶋の直接的な関与をうかがうことはできない。そのため多褹嶋は、吐噶喇列島以南の南島に対する行政権を行使する立場にはなく、ここからも大隅諸島までが日本の領域であったことが窺える。31 延喜大蔵省式94入唐大使条32 [坂上 2001]33 延暦の遣唐使は、南島経由で帰国していない。34 [永山 1985][永山 2007a][山里 1996]35 [鈴木 2007][鈴木 2008]36 [村井 2010][村井 2014]37 同時期に発掘が行われた青森県の石江遺跡群もまた「中央」とのつながりが指摘され、城久遺跡群と石江遺跡群は、「南」と「北」の境界遺跡として注目を集めた。[クライナー他 2010]19
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