5 「南西諸島」とは九州島と台湾の間に連なる島々の全域を指す地域呼称であるが、この語が使用され始めるのは明治20年頃からであり、含まれる島々については歴史的・政治的な理由から様々なグループピングや名称がある[水谷 2009]。本稿では便宜的にこの語を用いるとともに、島々のまとまりとして以下の呼称を用いる。 なお、近代まで無人島であり、琉球・沖縄の文化的影響を受けなかった大東諸島は分析対象に含6 [吉田 1997][柿沼 2022]7 [バートン 2001]8 [高宮 2021]9 南西諸島の先史時代区分は複雑で、『沖縄県史 各論編第二巻 考古』(沖縄県教育委員会、2003)では旧石器時代→縄文時代→弥生〜平安並行時代→グスク時代と区分しているが、「沖縄諸島を縄文文化圏に含めることや、弥生〜平安並行時代という時代名称の妥当性については異論もある」([沖縄考古学会 2018])。沖縄考古学会による『南島考古学入門』では、旧石器時代→新石器時代→グスク時代という時代区分を用いているが、いずれにしても時代区分問題は未だ決着をみていない(同書)。10 [池田 1995]11 [池田 1995][島袋 2015]12 [池田 1995][奄美市立奄美博物館 2021]13 南部九州の古墳については、[永山 2009a]を参照。14 [上村 2007][奄美市立奄美博物館 2021]15 [柿沼 2017][柿沼 2021a][柿沼 2022]16 『隋書』東夷伝・流求国には、 とある。煬帝の時代に朱寛が流求国から持ち帰った「布甲」について、倭の使節が「夷邪久国人」が用いるものであると述べたという。夷邪久国は屋久島を含む南方地域であると考えられ、倭の使節はその地域で用いられる「布甲」を見たことがあったということである。遣隋使の派遣はヤクの初見史料よりも前のことであることから、それ以前から倭国でヤクの存在は知られていたのであろう。[山里 1994]18を検討の対象とする。なお、現在でも日本の最南端の有人島は八重山諸島の波照間島である。大隅諸島:種子島、屋久島、口永良部島、竹島・薩摩硫黄島・黒島(三島村)吐噶喇列島:口之島・中之島・臥蛇島・諏訪之瀬島・平島・悪石島・小宝島・宝島など(十島村)奄美群島:奄美大島、喜界島、加計呂麻島、徳之島、沖永良部島、与論島など沖縄諸島:沖縄島、久米島など先島諸島:宮古諸島、八重山諸島(石垣島、竹富島、西表島、波照間島、与那国島など)琉球諸島:奄美群島、沖縄諸島、八重山諸島めないものとする。帝復令二寛慰撫一之、流求不レ従、寛取二其布甲一而還。時倭国使来朝、見レ之曰、此夷邪久国人所レ用也。17 [山里 1994]18 大隅諸島は弥生文化を受け入れていた地域であり、後にみるように令制国である多褹嶋も置かれているが、この段階ではヤマト政権の政治的連合の中に迎え入れるわけではなく、あくまで「異民族」とされた。これは、大隅諸島には古墳が営まれなかったように、ヤマト政権に参加するだけの政治的主体となり得るような勢力が生まれていない社会状況であったことによると考えられる。19 『日本書紀』天武天皇六年(677)二月是月条
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