早稲田教育評論 第37号第1号
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1 戦後の文壇で活躍した島尾敏雄は、1944年に海軍の特攻隊の指揮官として加計呂麻島に赴任した。そこで教師をしていた大平ミホと出会い、戦後に結婚するが、ミホの病気療養のため、1955年から奄美大島の名瀬に暮らすことになった。それから島尾は20年にわたって、この地で小説の執筆しながら図書館長を務めるなどした。名瀬在住時代に島尾が提起したのが「ヤポネシア(JAPONESIA)論」であり、日本列島を「島が群れ成す地域」と捉え、日本を表すラテン語の‘JAPONIA’に島々を意味する‘NESIA’をつけた造語である。「南島エッセイ」とも呼ばれる島尾の非小説作品群の中にあらわれている。ヤポネシア論で島尾が意図したのは、従来、単一に理解されてきた日本の歴史や文化の枠組みからの脱却であり、近代以降、日本列島が「日本」という国家の政治的等質性に覆い尽くされ、日本文化=稲作文化として一括りにされてきたことを指摘し、日本の歴史において、かつて列島の北縁・南縁に営まれていた蝦夷や琉球等の特色ある地域に注目し、それらを「もうひとつの日本」と表現した。その「もうひとつの日本」を含めて、日本列島を柔軟に捉え直すための装置として島尾が用意した概念が、多様な地域から成る日本列島としての「ヤポネシア」であった。[奄美市立奄美博物館 2021]2 [鹿野 1988]3 [鹿野 1977]4 現在の日本の最南端は小笠原村に属する沖ノ鳥島であるが、沖ノ鳥島は岩礁であるか否かが国際的に取り沙汰されることもあるような地理的条件から、歴史上、有人島であったことはない。また小笠原諸島の日本帰属を明治政府が宣言したのは1876年のことであり、それまで島の存在は知られていたものの、江戸時代には「無人島」と呼ばれていたように、長期間にわたって定住した人はいなかった。そのため本稿では、前近代から長く「日本」の「南」の境界であった南西諸島・ブルース・バートン『国境の誕生 大宰府から見た日本の原形』(日本放送出版協会、2001)・福田晃『日本と「琉球」』(法蔵館、2022)・水谷知生「南西諸島の地域名称の歴史的および政治的背景」(『地理学評論』82-4、2009)・村井章介「古代末期の北と南」(ヨーゼフ・クライナー、吉成直樹、小口雅史編『古代末期・日本の境界――城久遺跡群と石江遺跡群』森話社、2010)・――――『境界史の構想』(敬文舎、2014)・山内晋次『日宋貿易と「硫黄の道」』(山川出版社、2009)・――――「日本列島の硫黄とアジアにおける『硫黄の道』」(鹿毛敏夫編『硫黄と銀の室町・戦国』思文閣出版、2021a)・――――「日宋・日元貿易期における『南島路』と硫黄交易」(『国立歴史民俗博物館研究報告』223、2021b)・山里純一「掖玖と琉球」(『古代日本と南島の交流』吉川弘文館、1999、1994初出)・――――「古代の多褹嶋」(『古代日本と南島の交流』吉川弘文館、1999、1996初出)・――――「南島路とトカラ」(『平成13・14・15年度文部科学省科学研究費補助金(基盤研究B)研究成果報告書 琉球と日本本土の遷移地域としてのトカラ列島の歴史的位置づけをめぐる総合的研究』2004)・吉田孝『日本の誕生』(岩波新書、1997)・コンペル・ラドミール「変動する境界 ─南西諸島の分断軸─」(平井一臣編『知られざる境界のしま・奄美』国境地域研究センター、2021)・和泊町誌編集委員会編『和泊町誌(歴史編)』(鹿児島県大島郡和泊町教育委員会、1985)17

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