おわりに 〜歴史教育への展望〜「日本」の南限をめぐっては、奄美市立奄美博物館が2019年に奄美史を境界の歴史として捉える展示にリニューアルした72。本稿はこれらの成果を踏まえつつ、さらに南西諸島全体を対象として基礎的検討を行ったものである。「日本」の「南」の境界は、南西諸島の中で変遷してきた。また、「ここまでが日本」ということを明確にできない時期もある。南西諸島の歴史を考える際には、「なぜここが日本とされているのか」ということに留意する必要がある。参考文献・安里進「7〜12世紀の琉球列島をめぐる3つの問題」(『国立歴史民俗博物館研究報告』179、2013)・奄美市立奄美博物館編『博物館が語る奄美の自然・歴史・文化』(南方新社、2021)・池田榮史「南島と古代の日本」(水野祐監修・新川登亀男編『古代王権と交流8 西海と南島の生活・文化』名著出版、1995)・沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室編『沖縄県史 各論編第二巻 考古』(沖縄県教育委員会、2003)8月15日に開かれた大島郡民大会で新木駐米大使から「沖永良部・与論を含めての復帰」との報が伝わったことでようやく二島分離の不安が解消し、奄美群島完全復帰の喜びに湧いた71。これにより、北緯27度に新たな「国境」が引かれた。「国境」となった与論島と沖縄島の間では、「祖国復帰」へ向けた海上集会が開かれたり、与論島や沖縄島の辺戸岬でかがり火を焚くなどの復帰運動が行われた。そして1872年に沖縄は日本に返還された。しかし一般には、南西諸島が日本の領域に入っているという国土認識が疑問視される機会は多くなく、境界についての歴史学的な知見との間で乖離がある。歴史教科書においても、琉球が日本とは別の国であったことは述べられているものの、国土の境界の変遷について直接的に理解できるようにはなっていない。高校の歴史教科書における南西諸島の記述は一般に、「南島の服属」「沖縄の三山時代」「琉球王国の成立」「幕藩体制下の琉球王国」「琉球処分」「沖縄戦」「奄美・沖縄の復帰」のみであり73、境界史の表舞台になり続けてきた奄美群島については、調所広郷が黒糖の専売制を強化したところで地名が登場するに過ぎず、江戸時代の奄美が置かれた状況についての言及は各社ともみられない。中学校の歴史教科書でも、採択率の高い『新しい社会 歴史』(東京書籍)、『社会科 中学生の歴史』(帝国書院)、『中学社会 歴史』(教育出版)では、すべて沖縄の文化についてのコラムのページを設けて説明しているものの、奄美についての記述や境界の変遷についての指摘はない。これは単純に教科書に奄美を盛り込めばよいという話ではなく、現在の日本の国土が自明かつ絶対的なものであるという誤解を招かないためにも、「なぜ『鳥島』は入っているか?」という発想をもとに、あらゆる時代・地域を扱うことが重要だということである。本稿での検討を踏まえて、今後は南西諸島の歴史的な境界性を素材とする教育プログラムの開発を進めていきたい。15
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