6.琉球処分以後諸島周辺で硫黄を産出する火山は硫黄鳥島しかないため、琉球から中国に貢上された硫黄は硫黄鳥島産であるとされる63。薩摩藩の琉球支配の目的は琉球を通して中国と交易することであったため、薩摩藩が硫黄鳥島を琉球王国に留め置いたのは、重要な進貢品である硫黄を琉球王国が確保できるようにして、中国との朝貢貿易を継続させるためであったと考えられている。以上のように薩摩藩による琉球侵攻後は、奄美群島は表向きは琉球国のまま、実質的には薩摩藩の支配下におかれ、沖縄以南と硫黄鳥島については琉球王国が温存され、日本の幕藩体制と中国の冊封体制という論理の異なる2つの支配体制下におかれた。江戸時代は各大名に領地の支配が委ねられており、幕藩体制は分権的な支配体制であったが、1867年に幕府が滅亡すると新政府は国内の政治的統一のための諸政策を実施し、1871年には廃藩置県を断行した。薩摩藩は鹿児島県となったが、琉球は引き続き、鹿児島県が支配した。1871年11月に台湾に漂着した宮古島民が現地民に殺害された事件をきっかけに、琉球を日本に帰属させることが議論されるようになった。そこで1872年に琉球王国を廃止して琉球藩を設置し、在番奉行所は外務省出張所となり、琉球藩は外務省が所管することとなった。さらに1874年の台湾出兵を経て1875年には琉球藩を内務省に移管した。そして1879年、琉球藩を廃止して沖縄県を設置した。琉球処分について、琉球を冊封していた清は反発した。日本と清の交渉が行われ、琉球諸島のうち宮古・八重山を清に譲り、その代償として日清修好条規を改めて日本が清国国内での通商権を獲得する分島・改約案が1880年に日清間で妥結したが、清朝政府内で激しい議論がおき、調印に至らなかった64。琉球の帰属が問題とならなくなるのは、日清戦争の講和条約である下関条約を待たなければならない65。このようにして南西諸島の全域が日本の領土となった66。沖縄県では終戦まで、日本への同化政策が進められていくことになる。アジア・太平洋戦争における日本の敗戦の結果、1946年2月2日の「二・二宣言」によって北緯30度以南の島々は日本領土と行政分離され、これにより吐噶喇列島以南は米軍政府の統治下となった67。1952年、サンフランシスコ講和条約が発効したことで北緯29度以北の吐噶喇列島は日本に返還された。さらに1952年9月26日、奄美大島が日本に復帰することが有望になったとするニュースをNHKが報じた。しかし翌日には、『毎日新聞』が岡崎外相とマーフィー駐日大使の会見記事の中で大使が「北緯二十七度半以北の奄美諸島の施政権を日本政府に返還するか、あるいは委任するか考慮中である68」と語ったと報じ、また同日の『朝日新聞』は「どの島を日本に復帰させるのか、どの程度の権限が日本側に譲られるのか、などの具体的な点については、まだ米国側の意向は明らかにされていない69」と報じた。これにより、返還対象から除外される可能性が出てきた沖永良部島と与論島70は大混乱に陥り、二島分離反対運動が巻き起こった。結局、これらの報道は後に誤報だったことが判明するが、1953年8月8日に米国のダレス国務長官が「奄美群島を日本に返還する」旨の声明を発表した後も、二島は本当に返還されるのかという不安は残り、14
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