の行政機構が適用されるようになり、行政単位である間切やノロ祭祀が制度として導入されていった56。奄美の「琉球化」が進められたといえよう。日本の勢力による「外五島」支配がどうなったのかは史料上、詳らかではないが、この段階で日本の「南」の境界は吐噶喇列島と奄美群島の間にあったといえるだろう。琉球王国は、先島にも支配領域を広げていった。宮古と八重山は1390年に中山と初めて朝貢関係を持つようになるが、その関係は緩やかなものであった。琉球王国は1477年に即位した尚真王の下で行政機構や地方統治が強化され、中央集権化が進展していく。15世紀の先島は群雄割拠の時代であり、オヤケアカハチ、長田大主、仲間満慶山などの勢力争いが起こっていたが、琉球王国はこれに介入する形で1500年にオヤケアカハチの乱に勝利し、先島における琉球王国の支配体制が整備されていった57。このように琉球王国は、沖縄の他にも奄美と先島を支配するようになった。すなわち、琉球王国は奄美・沖縄・先島の3つの地域を支配する王権であり、琉球諸島の中にも境界があったということである58。これらの地域を支配しながら、琉球王国は明の冊封を受けて中継貿易で繁栄するが、1609年、薩摩藩は幕府の許可を得て琉球王国に侵攻し、服属させた。薩摩藩による琉球支配の特質は、1634年に徳川家光から島津家久に与えられた次の領知判物に表れている。薩摩・大隅両国幷日向国諸県郡都合六拾万五千石余〈目録在二別紙一〉、此外琉球国拾弐万三千七百石事、全可レ有二領知一之状一如レ件、寛永十一年八月四日 家光(花押)薩摩中納言殿琉球は薩摩・大隅・日向諸県郡の「此外」として位置づけられたということである。琉球は幕藩体制の知行・軍役体系の中に組み込まれたものの、島津氏は琉球を除いた605,000石分の軍役のみを務めることになり、琉球の石高は軍役の対象外とされた。このように琉球は、「幕藩体制のなかの『異国』」という扱いを受けた59。薩摩藩は、琉球王国を存続させて明との関係は維持させた。琉球による朝貢貿易に関与し、貿易の利益を得ようとしたためである。そのため琉球王国は、中国の冊封を受ける一方で、薩摩藩が那覇においた在番奉行所の支配を受けることになったのである60。一方、奄美について薩摩藩は、1611年に「掟十五か条」が示され、琉球王国から切り離されて薩摩藩の直轄領となった61。以後、薩摩藩の直接支配の下で統治体制が整備されていく。奄美群島ではサトウキビが導入されて砂糖の生産が始められ、さらに稲作からサトウキビ栽培への転換が進められて、プランテーション的栽培が行われた。これによって奄美の島々はモノカルチャー経済となり、近代に至るまで厳しい経済状況におかれたのである62。「はじめに」で述べたように、地理的には奄美群島に近い硫黄鳥島については、薩摩藩は直接支配の対象とはせず、琉球王国に留め置いた。これは、硫黄鳥島において硫黄が産出されたことが関係している。中国では宋代から兵器への火薬の利用がひろがったが、火薬の材料である硝石と硫黄のうち、中国国内で硫黄を産出する火山は限られていた。そこで日本列島産の硫黄の需要が高まり、特に沖縄からは三山時代より大量の硫黄が中国にもたらされたことが知られる。沖縄13
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