早稲田教育評論 第37号第1号
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4−4 奄美・沖縄の政治的統合と奄美支配5.琉球王国の成立〜琉球処分まで(14世紀〜19世紀末)続の対象となっている52。以上のように、吐噶喇列島と奄美群島は島津氏や千竃氏の所領のように扱われているが、奄美については日本の範囲を示すと思われる龍の外側53にあって「私領郡」とされており、また「此外五島」として扱われるなど、吐噶喇列島以北とは支配の様相が異なるようである。この理由について考えるために、続いて当該期の奄美・沖縄の社会についてみていきたい。日本の勢力によってキカイガシマ・イオウガシマ、もしくは十二島・外五島の支配が強化されていった時期には、南島においても社会構造に大きな変化が生じた。11世紀頃から喜界島の城久遺跡群は隆盛をみるが、同時期に徳之島にカムィヤキ古窯跡群が出現し、また長崎の西彼杵半島産の滑石製石鍋がもたらされるなど、南北の交流が活発化していった。この時期に奄美群島で農耕文化や鉄器文化が広がり、これは沖縄諸島や先島諸島まで南進し、沖縄にグスク時代をもたらすことになった54。これにより、沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島は歴史的に初めて共通の文化を歩み始め、琉球王国誕生に向けた社会的基盤が成立していった。そして、九州から漸南した外来者によりもたらされた文化が奄美から沖縄・先島へと拡散、浸透していく過程こそ、当該地域が日本語圏に含まれていく時期と考えられている55。さて、吐噶喇列島以南の島々が島津氏などによって知行されるようになるのは12世紀頃からであるが、これは奄美・沖縄がグスク時代を迎え、豪族であるアジが各地に出現して地域の中での政治的統合が進むのと同じ時期である。「外五島」の支配は吐噶喇列島以北とは異なるものであったと先に述べたが、「外五島」の語が登場する14世紀頃には奄美大島の赤木名城跡や喜界島の七城跡など、中世城郭的遺跡がみられるようになる。これらは沖縄のグスクとは異なる構造を持っており、またカムィヤキなど交易によってもたらされた物も出土している。島津氏や千竃氏とこれらの城を築いた人々の関係は定かではないが、15世紀に奄美群島が琉球王国の支配下に置かれていくことを考え合わせても、九州に拠点を置く勢力が奄美において行政権の行使をともなう地域社会の支配をしていたとは考え難く、現地の有力者であるアジと通交するなどの関係を有していたという程度であり、だからこそ奄美群島は龍の外側にあって、「私領郡」「外五島」と表記されたのではないだろうか。北方からの移住者の影響により、農耕文化や鉄器文化が広がり、琉球諸島はグスク時代を迎える。沖縄では城塞型グスクが出現し、山北・中山・山南の三つの勢力に成長し、三山が鼎立する時代となった。明が成立すると、1372年には中山王が、1380年に山南王が、1383年に山北王が入貢し、三山は明の冊封体制に組み込まれた。三山は互いに抗争するが、1429年に中山王尚巴志が三山を統一し、琉球王国が成立した。三山時代から奄美の島々は沖縄の各勢力に服属するなどしていたようであるが、三山が統一されると、琉球王国は1429年に与論島、沖永良部島、徳之島を服属させた。さらに1447年には奄美大島を、1466年には喜界島を征服し、奄美群島全域を支配することになった。奄美では琉球王国12

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