4−3 実態としてのシマの支配の理解を難しくしているが、先行研究に基づいて整理してみたい。10世紀末に南島の一部は奄美とは区別されてキカイガシマとして認識されるようになり、「貴駕島」のように「貴」のイメージで捉えられていた。一方で11世紀後半に硫黄交易が本格化していく中で、硫黄を産出するイオウガシマ(大隅諸島の薩摩硫黄島)が南島の総称として用いられるようにもなり、キカイガシマとイオウガシマはしばしば混用されていく45。『長秋記』天永二年(1111)九月四日条には、「喜界嶋者来着紀伊国事」について陣定が行われているが、これは「喜界嶋者」が宋人や高麗人と同じ扱いを受けたためである46。また1188年に源頼朝は、義経が隠れているかもしれないとしてキカイガシマを征討させたが、その際に摂関家から三韓とキカイガシマを同列に位置づけて征討に反対する諫申が出されており47、キカイガシマは日本の領域の外として認識されている。これについて永山氏は、キカイガシマについての認識が日本の内側から外側へと変わったとするが、先述のようにもとからキカイガシマは領域の外にあり、『長秋記』や『吾妻鏡』の記述もその認識を反映したものであると考えられる。また、12世紀後半にはイオウガシマへの流刑が確認できるようになるが、頼朝によるキカイガシマ征服によってイオウガシマ管理は安定したものとなり、日本の領域内に組み込まれ、国家的な流刑地としての機能を持つようになる。そして13世紀に入る頃には、火山島であるイオウガシマは異域に対する恐怖心や地獄観の影響を受けて、「鬼界島」として表記されるようになった48。キカイガシマとイオウガシマは、日本の領域内で管理されるようになったことで、逆に人々のイメージが実相と離れて「鬼」のイメージが持たれるようになったということだろう。では、キカイガシマ・イオウガシマとされた島々は、実態としてはどのように支配されたのだろうか。『平家物語』では、南海に連なる島々を「十二島」と称しており、十二島は「口五島」と「奥七島」からなり、口五島は中央政府に従い、奥七島は従わない存在として区別されている49。永山氏は口五島について、三島村に属する竹島、薩摩硫黄島、黒島の三島と、中世後期に薩摩国として認識されるようになる口永良部島、屋久島50のことであるとする。また、奥七島は、吐噶喇列島の島々のことを指すとされる。これらの島々の管轄については、13世紀代に十二島地頭職が設置され、14世紀中頃まで島津氏が十二島地頭職を務めていた。一方で十二島は薩摩国河辺郡に属しており、そこには河辺郡司職が設定されており、13世紀後半頃から得宗家の手に帰し、被官である千竃氏が河辺郡地頭代官職に就いた。このように十二島地域は地頭島津氏と郡司千竃氏の両者によって知行される状況であった51。14世紀初頭に描かれた「金沢文庫蔵日本図」は日本列島のまわりを龍が取り囲んでいることが知られるが、十二島が龍の内側に描かれているのに対して、龍の外側には「龍及国宇嶋 身人頭鳥 雨見島 私領郡」と書かれている。「私領郡」とは千竃氏の私領を指すと考えられる。また、貞治三年(1364)四月十日付島津道鑑譲状に「薩摩国河辺郡 同十二島此外五島」を子の師久に譲るとみえるが、「此外五島」は奄美群島のことであると考えられ、奄美群島までが島津氏の相11
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