早稲田教育評論 第37号第1号
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奉レ遣二幣帛使於諸社一、依二筑紫之騒動一也。4−2 観念的なシマ:キカイガシマ・イオウガシマと国家領域えない。しかし10世紀末に突如として、キカイガシマという表現とともに再び登場する。この時期には、南島に関して以下のような史料がみえる。『日本紀略』長徳三年(997)十月一日条大宰飛駅使参入云、南蛮乱二入管内諸国一、奪二取人物一、奏楽之後、諸卿定二申件事一。同          十月十三日条同          十一月二日条大宰府飛駅使来、申下伐二獲南蛮卌餘人一之由上。「南蛮」の乱入とそれへの対応が記されているが、大宰府からの報が入った十月一日の旬政には藤原実資が出席しており、自身の日記により詳しい内容を書き記している。『小右記』長徳三年(997)十月一日条に、奄美嶋者乗船帯二兵具一、掠二奪国嶋海夫等一、筑前・筑後・薩摩・壱岐・対馬、或殺害或放火、掠取人物、多浮二海上一(中略)当国人多被二奪取一、已及二三百人一(中略)先年奄美嶋人来、奪二取大隅国人民四百人一。とあり、「南蛮」は「奄美嶋人」であることが分かる。その後、「南蛮」について次のような記事がみえる。『日本紀略』長徳四年(998)九月十五日条大宰府言下上、下二知貴駕島一、捕二進南蛮一由上。『日本紀略』長保元年(999)八月十九日条大宰府言下上追二討南蛮賊一由上。大宰府が「貴駕島」に対して南蛮の追討を命じている史料は、キカイガシマの初見である。これをもとに永山修一は、「貴駕島」は大宰府管内に位置し、なおかつ奄美を追討し得るような位置にあると認識されていたとし、大宰府が下知していることから「貴駕島」には命令を実行に移す官人あるいは「島」という行政機関が置かれ、さらに「貴駕島」は日本の領域の中にあったとする。そして、城久遺跡群の発見によって「貴駕島」は喜界島に存在した可能性が高まったと指摘する43。奄美大島のすぐ東側にあって日本とのつながりが深いことから、喜界島は「貴駕島」の有力な推定地となるだろうが、先述のように城久遺跡群からは官衙的な遺構は発見されておらず、地域社会とは隔絶した集落であったこともあり、地域を支配したとは考え難い。そのため、「貴駕島」が日本の領域内であったと考えることはできない。これらを踏まえると、交易の拠点として大宰府とのつながりが深く、官人が日本から派遣されることもあった喜界島が「貴駕島」と呼ばれ44、そこを拠点として奄美人の追討が行われたということではないだろうか。この時代の国家領域について検討する際には、キカイガシマ・イオウガシマという形で表記されるしばしば観念的な存在としてのシマと、具体的な島名と結びついた実態としてのシマという、二種類のシマを扱うことになる。これらが複雑に絡み合っていることが中世日本の国家領域10

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