早稲田教育評論 第37号第1号
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4.中世日本の「南」の境界と奄美・沖縄の政治的統合(10世紀末〜14世紀初め)4−1 キカイガシマと喜界島ジア規模のひろがりをもつ供給源からもたらされた物資によって支えられ、中央直結型の生活を送っていたと指摘した36。このように城久遺跡群は在地社会と大きく性格が異なる点が注目され、大宰府の出先機関のようなものがあったのではないかという議論が巻き起こった37。では、喜界島には律令国家の出先機関が置かれ、それは南島支配を担うような役割を果たしていたのだろうか。2015年に発行された『喜界町埋蔵文化財発掘調査報告書14 城久遺跡群 ─総括報告書─』をもとにみていきたい。城久遺跡群が営まれていた時期38のうち9〜11世紀は、遺構数は少ないが、建物跡は2×3間で柱筋が整った建物がつくられていた。建物跡の周辺では越州窯系青磁など初期貿易陶磁器が出土しており、古代日本国家の影響下にある施設があったものと考えられる。ただし、コ字状配置など建物が規格的に配置されるような状況は確認できず、また石帯・硯・墨書土器などいわゆる官衙的な遺物は確認できていない。そのため、官人が直接的・継続的に居たわけではないことが推察される。また、土師器は南島的側面が強く、古代日本国家と関係を取り合った南島の人々によって営まれていた可能性が想定される。11世紀代に入っても日本との密接な関係は続いていたとみられ、島内の有力者は、I期に構築した交易システムを活用し、日本からの南島特産物の需要にこたえていたものとみられる。一方で、この時期には徳之島でカムィヤキ古窯跡群が忽然と出現し、城久遺跡群では墓の副葬に用いられるなど一大消費地であったことが窺える。さらに城久遺跡群でも製鉄炉が操業され、城久遺跡群で生産された鉄塊が南西諸島に広く普及した可能性が考えられる。鉄器の普及は農耕の普及とも大きくかかわり、城久遺跡群にモノが集約する大きな求心力の一つであったと考えられる。12世紀後半になると遺物量が極端に減少し、遺跡の規模が急速に縮小する39。このように、9〜10世紀の城久遺跡群は日本の古代国家との関係が深かったことは確かだが、「中央」や大宰府から役人が派遣されて営まれた地域支配の拠点とまでは評価できないようである。『小右記』によれば藤原実資のもとへ大隅国の役人からヤコウガイが贈られているが40、このヤコウガイは奄美大島周辺で獲れたものだと思われ、平安時代にはヤコウガイや赤木など貴族層に需要の高い南島の特産品41が日本にもたらされる交易ルートが形成されていた。城久遺跡群に居住した人々は、日本へと特産品を送り出す交易ルートを管理する役割を担う存在だったと考えられる42。また11世紀以降は、後述するような奄美・沖縄における政治的統合の時期でもあり、南島の主体性の確立に寄与するような役割をも担ったと考えられる。以上のように、8〜10世紀にかけて奄美・沖縄の島々と日本との間では交易が行われ、城久遺跡群は交易を管理する拠点としての役割を果たしていたと考えられるが、地域支配が行われた痕跡はなく、行政権が及ぶ範囲はあくまで大隅諸島までであった。前述のように9〜10世紀末にかけて、吐噶喇列島以南の南島についての記述は日本の史料にみ9

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