8右、参議大宰大貮従四位下小野朝臣峯守等解称、謹検二案内一、太政官去二月十一日符称、件嶋南居二海中一、人兵乏弱、在二于国家一、良非二捍城一。又嶋司一年給物准稲三万六千餘束。其嶋貢調鹿皮一百餘領、更無二別物一。可レ謂二有レ名無レ実、多レ損少一レ益。右大臣宣、奉レ勅、宜下勘二利害一言上上者。南溟淼淼、無レ国無レ敵、有レ損無レ益。一如二符旨一、須三停レ嶋隷二大隅国一。計二其課口一、不レ足二一郷一。量二其土地一、有レ餘二一郡一。能満合二於馭謨一、益救合二於熊毛一、四郡為レ二。於レ事得レ便者。(中略)况暝海之外費損如レ此。加以、往還之吏漂亡者多。運送之民蕩没不レ少。守二無レ益之地一、損二有用之物一。求二之政典一、深迂二物議一。伏望、依レ件停隷、以省二辺弊一。伏聴二天裁一。謹以申聞。謹奏。天長元年 九月三日この太政官奏によれば、多褹嶋は損はあっても益は少なく、海難事故などのリスクを負ってまで存続させる必要はないという大宰府からの解をうけて廃止されたことになる。種子島や屋久島の地理的条件は奈良時代から変わらないはずであるにもかかわらず、多褹嶋は何故にこの時に廃止されることになったのだろうか。これについては、当該期における国家構造や南部九州の状況から理由が推測されている。光仁朝以降、日本は唐を盟主とする東アジアの国際秩序から離脱し、国内に「異民族」を抱える形をとる必要がなくなったことから、列島内の「帝国」構造が清算されていった32。こうした中で隼人の公民化が進み、比較的支配が安定した地域であった多褹と薩摩・大隅を区別する必要がなくなった。また、遣唐使の南島経由での帰国も想定されなくなっていた33。これらの理由により、多褹嶋は行政区画として無理に維持する必要性がなくなり、廃止されたと考えられている34。多褹嶋の廃止は、大隅諸島に特殊な令制国を設置することをやめただけであり、4郡を2郡に統合はしたものの、引き続き大隅諸島は大隅国の一部として日本の国家領域の南限であり続けた。では、吐噶喇列島以南の島々はどうなったのだろうか。大宰府跡不丁官衙地区からは、天平年間頃の「㭺美嶋」(奄美大島か)、「伊藍嶋」(沖永良部島か)という木簡が出土し、付札と考えられている。また、奄美大島の小湊フワガネク遺跡からはヤコウガイが大量に出土し、貝殻の集積や貝製品の生産を行っていたことが知られる。これらより、8世紀以降も奄美群島の島々から日本に特産品がもたらされていたことが窺える。では、古代国家はこれらの島々に対してどのように関与していたのだろうか。喜界島の城久遺跡群を中心にみていきたい。2002年より大規模な発掘調査が開始された城久遺跡群は、9世紀〜15世紀頃にかけての集落遺跡で、島の中央部の台地上に位置している。おびただしい数の掘立柱建物群の遺構や、大量の貿易陶磁器、西彼杵半島産滑石製石鍋、徳之島産カムィヤキなどの遺物が出土し、島の沿岸部の低地にみられる在地型社会と異なり、日本の「中央」との結びつきが強い遺跡であるとして大きな注目を集めた。鈴木靖民は、これらの建物群は単なる古代の尋常の集落跡ではなく、九州などの国府、郡家などの官衙と比べても遜色なく、建物配置も行政や管理事務のための殿舎(政庁)、貢進物の保管用の倉庫(正倉)、官人たちの集会する空間(庭)などと解釈できるほどであるとした35。村井章介は、城久遺跡群を「移植された中央」という言葉で評価し、集落の居留者たちの生活が東ア停二多褹島一隷二大隅国一事
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