停二多褹嶋司一、隷二大隅国一。3.8世紀〜10世紀の南西諸島と日本南嶋人二百卅二人、授レ位各有レ差、懐二遠人一也。同 神亀四年(727)十一月乙巳(8日)条南嶋人百卅二人来朝。叙レ位有レ差。南島の奄美、信覚27、球美(久米島)、度感などからの来朝を朝貢と見なしているが、これはすなわち、これらの島々の人々は夷狄として扱われているということである。つまり、奄美群島以南は多褹嶋の行政権が及ばない、内国化されていない地域であったと考えられる。さて、大隅諸島と奄美群島の間には、吐噶喇列島が南北に長く連なっている。吐噶喇列島については8、9世紀を通して史料にみえないが、吐噶喇の島々はどれも周囲が断崖のため、島影を見ながらの航海に利用されることはあっても、容易には寄港できなかったと考えられる28。そのため、少なくとも古代国家が領域的な支配を行ったとは考え難い。以上のように、多褹嶋が設置されたことで日本の国家領域の南限は大隅諸島までとなったのである。727年の南島人の来朝記事の後、多褹嶋よりも南の島々の動向は史料にみえなくなってしまう。この時期の南島を古代国家がどのように位置づけていたかについて、断片的な情報から考えてみたい。賦役令10辺遠国条の集解古記に、夷人雑類謂二毛人・肥人・阿麻弥人等類一。問、夷人雑類一歟、二歟。答。本一末二。仮令、隼人・毛人、本土謂二之夷人一也。此等雑二居華夏一。謂二之雑類一也。とあり、「雑二居華夏一」するものとしては隼人・毛人しか挙げられていないため、738年頃に古記が成立した時点で、「阿麻弥人」は「国外」に存在するものであるという認識がもたれていたと考えられる。また、『続日本紀』天平勝宝六年(754)二月丙戌(20日)条に、とある。遣唐使の漂着29などに備えて南島の島々に目印となる「牌」が設置されていたが、それを修理するという内容である30。また、『延喜式』にも遣唐使の構成員として「奄美訳語」がみえ31、南島へ漂着する場合に備えていたことがわかる。このように、吐噶喇列島以南の島々について奈良時代には、国家領域の外ではあるものの、通交があり、夷狄と位置づけられるアマミ人が存在し、また航海上も重要な地域であると認識されていた。しかし、次の史料にあるように824年に多褹嶋は停廃され、大隅国に併合された。『日本紀略』天長元年(824)十月朔条『類聚三代格』天長元年(824)九月三日付太政官奏勅二大宰府一曰、去天平七年。故大弐従四位下小野朝臣老、遣二高橋連牛養於南嶋一樹レ牌。而其牌経レ年、今既朽壊。宜下依レ旧修樹、毎レ牌、顕二着嶋名并泊レ船処、有レ水処、及去就国行程一、遥見嶋名、令中漂着之船知上レ所二帰向一。7
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