早稲田教育評論 第37号第1号
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7.まとめ・考察位置がかなりはっきりしている」中で「指導的なことで終わ(らせ)る」ことに違和感を覚えている9。しかし、Fさんは「学校は集団」であるがゆえに難しいと悩んでいる。それは、Fさんの次のような語りで表される。Fさん: 小学校は担任の先生がすべての「授業をやって、30人の子どもたちを自分で見る」という意識がすごく強いので、外部の人が関わって、「この部分やりますね」っていうやりとりがけっこう難しいですね。まぁ思いっきり家庭と学校に分ければいいと思うんですけど、私達が学校内で関わりを持つ場面があったときに、あんまり共有が、パスがうまくいかない感じがあったりはしますね。(中略)じゃあSSWrがこうしていこう、という方針を持っていても、その部分を先生が「できたんでやっときました」だったりとか。(SSWrから先生に)なにかお願い事をしたいけど、「そっちはそっちで動いて」みたいな場面があったり、とか。(中略)ある意味、中学校の先生はよくも悪くもパスが上手なんだと思うんですね。私はこの部分とこの部分やる、○○先生にこの部分頼んで、○○先生にこの部分聞いて、と。(一方)小学校の先生は「私がやる」という部分がベースにあるので、一部分やられるのはやりづらいのかもしれないです。全部ではないんでしょうけど。Fさんは、「『この部分やりますね』っていうやりとり」を始めとした小学校の教員との協働がうまくいかず、「できたんでやっときました」や「そっちはそっちで動いて」といった分業化に陥ることが多いことを語っている。そして、その原因として「『授業をやって、30人の子どもたちを自分で見る』という意識」を挙げ、「パスが上手」な中学校の教員と対比して理解している10。このようなFさんの語りは、6−1.で述べたGさんの語りと対照的である。Gさんは学校外だからこそ、集団を単位とした教育活動と距離を置いて無条件的に関われたのに対し、Fさんは「学校内で関わりを持つ」ことになったからこそ、「私がやる」ことがベースにある担任の指導とソーシャルワークを並立させる難しさに直面しているといえる。以上の結果をまとめよう。本論文ではSSWrと管理職教員の語りに着目し、学校におけるソーシャルワークと指導の関係を明らかにしてきた。ソーシャルワークとして行われている支援は、一つは第三者性による家庭への支援拡大(4.)であり、もう一つは眼差しの多重化(5.)である。そして、前者は指導と並立する整合的な関係にあった(6−1.)のに対し、後者では不整合が生じている(6−2.)ことを明らかにしてきた。これらをまとめると図2のようになる。以上の結果から考察されることは、1.で述べたソーシャルワークの対象・方法・価値それぞれについて、学校外で行われるソーシャルワークならば指導と容易に並立しうるが、学校内で行われるソーシャルワークの場合は指導との不整合を乗り越える必要があることが示唆される。まずソーシャルワークの対象である。SSWrが行っていたソーシャルワークのうち、学校に登校することができない児童生徒や、学校内で直接的に働きかけられない保護者に対する支援は、教員119

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