早稲田教育評論 第37号第1号
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6-2.発信の捉え方をめぐる指導との不整合築く指導関係とは別様の関係を児童生徒と構築するに至っている。そしてこうした関係に収まっている限りにおいて、教員の指導とSSWrのソーシャルワークは並立が可能である。Gさんはさらに次のように語る。Gさん: 子どもがたくさん理不尽なことを言っていても、それにどこまで付き合えるかというところも、ひとつポイントかなぁとは思っていて。例えば子どもと先生と私、三人で話をしたときに、先生と子どもがどうしても意見がぶつかっちゃうときがある。(中略)(SSWrとしては)どこまで子どもと一緒に、「そういうところあるよねー」っていう風にできるかなっていうところはあったりしますよね。(中略)(子どもが)そういう理不尽なことを言っているときは、ゴネて言っているときもあれば、ちょっと大人を試して言っているときもあったりするので、それ(理不尽に付き合うこと)によってまた子どもの様子も変わってくるかなぁと。Gさんは、一見して理不尽に見える子どもの言動に「どこまで付き合えるか」がポイントであると述べている。それは、そうした子どもの言動が「ゴネて言っているときもあれば、ちょっと大人を試して言っているときもあったりする」からであり、「(理不尽に付き合うこと)によってまた子どもの様子も変わってくる」からである。こうした関わりは、集団を単位とし、条件を課しながら関わる学校における指導8では実現できない。しかし、それが学校とは異なる家庭において行われているため、指導と不整合をきたすことなく並立しているといえる。一方、「眼差しの多重化」は教員の指導と不整合が生じている。Fさんは、教員が指導に当たる思いやその必要性に共感を抱きながらも、その不器用さへの違和感を次のように語っている。Fさん: (SSWrである)私がするかは別として、この子に対してこういうことを言ってあげなきゃいけないんだよっていう先生としての立ち位置や状況には共感というか、理解というか、必要だな、と思うことはありました。ベースで、子どもたちは大人ができることを最大限して育ててあげなきゃいけないって言う先生方の思いには共感します。でも、違和感というところでは、やっぱり「教員と子ども」という教える側、教わる側という立ち位置がかなりはっきりしているので。それがメリットにもなるとは思うんですけど、ひとりの人間として、子どもが、やり方はすごく不器用だったとしても発信した部分を、(先生が)指導的なことで終わ(らせ)るという場面にはけっこう違和感を覚えるというか。でも一方で学校は集団だったりもするので、難しい部分だなぁとは思います。Fさんは、教員の「子どもたちは大人ができることを最大限して育ててあげなきゃいけない」とする教員の思いに共感を寄せながらも、子どもとの関わりを「教える側、教わる側という立ち118

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