早稲田教育評論 第37号第1号
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た。もちろん担任と保護者も連絡は取り合っているんですけど、もっと踏み込んだところとか、学校との仲介っていうかたちでの第三者っていうところを、まぁ(SSWrに)期待していたような状況ですかね。B先生が期待する「第三者」とは、「保護者が動いてくれ」ない状況において、家庭の問題に「踏み込」んで解決できる存在である。働きかける対象があくまでも児童生徒である学校は、保護者に対する直接的な支援方法を有していない。こうした「学校としては手立てがない」中で「担任が抱えて悩むしかない」場合に、家庭を含む児童生徒の環境に働きかけることができるSSWrは求められるのである。安心感を得るためにせよ、保護者に動いてもらうためにせよ、こうした第三者性が求められるのは、教員の多忙さを考慮する管理職教員ならではの目線にも由来している。C先生は次のように語っている。C先生: 担任は、支援が必要な子に対応をしたいんだけども、それ以外の何十人かの生徒を見なければいけないじゃないですか。とすると時間的な手の足りなさと、精神的な手の足りなさと両方ですよね。まぁだからすごいジレンマになると思うんですよね、担任としてはね。本当ならこの子の話をもっと聞いてあげたいんだけども、他にも対応しなきゃいけない子がいるし、こっちではけんかが起きるし、こっちでは保護者から電話がかかってくるし、と。(中略)その子がどんな状況にいるか、その子が何を思っているか。いわゆる相談相手としての動きを、本来なら担任としてもっとやってあげたいんだけどできないというジレンマがあって、そこ(相談相手としての動き)を(SSWrに)カバーしてもらえるというのは非常に大きいですよね。C先生は、教員が「支援が必要な子に対応をしたい」ものの、「それ以外の何十人かの生徒を見なければいけない」という状況下でそれが叶わないという時間的・精神的なジレンマに置かれていることを話している。原則として学級を単位として動いている学校では、担任が個々の子どもの状況を把握し、気持ちに耳を傾けるという二者関係を構築するには限界がある。だからこそ、個別的な対応を得意としているSSWrに第三者としての役割を担うことを求めているのである。SSWrのEさんも、そうした自身の時間の柔軟性を次のように述べている。Eさん: 学校の(担任の)先生だと時間がなくて、空き時間をみつけて一生懸命家庭訪問をしていらっしゃる。けど、10分ぐらいしか(家庭に)居られなくてすぐ(学校に)帰ってこなきゃいけないっていう感じで。(一方で)私だとその子のペースにあわせて1時間とか2時間とかいっしょにいたりしたので、そうやって子どもに合わせた時間の動き方ができて、そこから子どもが少しずつ外に出てきてくれた、というのがあったので、(担任の先生から)「そういう柔軟な動きはありがたいです」って言っていただけましたね。115

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