早稲田教育評論 第37号第1号
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6本)は小中華意識を満たしていた。しかしこうした使節が途絶する中で、新たに夷狄として扱うことができる存在を求めて南方の探索が本格化していったのであろう21。この探索は、どのように進められたのだろうか。まず、先にみたように7世紀前半の段階でヤマト政権はヤクについて認識しており、その後、670年代には多■嶋の記事がみえる。後に設置された多褹嶋が種子島・屋久島・口永良部島を管轄していたといわれることを考えると、ヤクと多■がそれぞれ屋久島・種子島に対応していると判断できるわけではないが、いずれにしてもこの時期は大隅諸島の島々と通交していた段階である。680年代になると、多■嶋に使節を派遣するだけでなく、『日本書紀』天武天皇十一年(682)七月丙辰(25日)条に、多■人・掖久・阿麻彌人賜レ禄。各有レ差。とあり、阿麻彌人も入京し、賜禄を行っている。大隅諸島から奄美大島まで通交する島が南下したということである22。690年代には、次のような史料がみえる。『日本書紀』持統天皇九年(695)三月庚午(23日)条同   文武天皇二年(698)四月壬寅(13日)条同   文武天皇三年(699)七月辛未(19日)条多褹・夜久・菴美・度感等人、従二朝宰一而来貢二方物一。授レ位賜レ物各有レ差。其度感嶋通二中国一於レ是始矣。695年の段階で多■において「求二蛮所居一」とあって、大隅諸島において「異民族」を探し求めており、698年には「南嶋」において土地を探し求める「覓国」が行われ、その探索は戎器を用いる武力的なものであった。その成果か699年には「多褹・夜久・菴美・度感等人」が朝貢してくることになる。698年の「南嶋」は、正史における「南島(嶋)」の語の初見であり、古代国家は南西諸島の島々を広く「南島(嶋)」として認識するようになる。そして、日本を「中国」とする小中華意識を前面に出して度感嶋(徳之島)との初めての通交を喜んでいるのである。この段階までは、朝貢してくる「異民族」として大隅諸島を含む南島の人々は扱われていた。しかしその後、薩摩や多褹で反乱が起こったことをきっかけに、人々を戸籍に登録し、官吏がおかれることになり23、8世紀頭に多褹嶋が成立する24。「嶋」とは対馬、壱岐など西海道の「辺境島嶼」におかれた特殊な行政区画で、令制国に準ずる扱いを受けた25ことから、多褹嶋の成立により大隅諸島は内国化されたといえる26。その後も、以下のような南島からの来朝記事がみえる。『続日本紀』和銅七年(714)十二月戊午(5日)条少初位下太朝臣遠建治等、率二南嶋奄美・信覚及球美等嶋人五十二人一、至レ自二南嶋一。同   霊亀元年(715)正月朔条陸奥・出羽蝦夷并南嶋奄美・夜久・度感・信覚・球美等、来朝各貢二方物一。同   養老四年(720)十一月丙辰(8日)条遣二務廣貳文忌寸博勢・進廣参下訳語諸田等於多■一、求二蛮所居一。遣二務廣貮文忌寸博士等八人于南嶋一覓レ国。因給二戎器一。

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