早稲田教育評論 第37号第1号
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2-2.社会福祉学研究れた“結果”ではないだろうか。裏を返せば、果たしてSSWrが展開したいソーシャルワークは、当初から「黒子」の役割に収まりきるものだったのだろうか。また、保田(2014)は教員が他専門職に対して、子どもとの日常的関わりをもとにゲートキーピングの管轄権を担うため、指導の文化(酒井 1999)は強調されていると論じている。しかしそれは果たして、日常的関わりという時間的な原因によるものなのだろうか。1.で述べた問題意識に照らせば、それは指導とソーシャルワークという、質的に異なる支援方法が不整合を生じさせているから強調されているのではないだろうか。以上の2点から、ソーシャルワークの展開に伴う不整合の実態は、学校内で一定の整合に達した役割分担を捉えたフィールドワークからは十分に見えてこないといえる。ところで、学校においてソーシャルワークと指導がどのような関係にあるのかという本論文の問いは、現実の解明を主眼とする“説明”の問いである。しかしこの“説明”の問いは、“実践志向性”を帯びる社会福祉学においては主要な関心の外にあった。岡村(1983)は、社会福祉学は「単に生活問題を認識し、説明するだけのものであってはならない」としたうえで、「当面の解決策を含めて、生活問題の有効な、また実現可能な解決方法を示さなければ、実践科学ないし応用科学としての社会福祉学にならない」と述べている。こうした“実践志向性”は、「社会福祉についての研究」「が要請される」のは、「対象(客体)となる生活問題や福祉ニーズにはたらきかけ、それらを解決、軽減緩和することによって利用者の自立生活と社会参加を支援し、さらにそのことを通じて社会の統合と安定を確保し、促進することにある」とする古川(2003)にも引き継がれている。こうした研究動向は、SSWrの研究に限っても同様である。例えば、SSWrの効果的な援助要素の抽出を行った山野(2015)では、仮モデルの作成段階において「優れたスクールソーシャルワーク実践」が対象とされ、モデルの修正においても「自らの実践だけでなく自治体の事業全体を発展させようとしているSSWr・スーパーバイザー」といった「エキスパートやリーダー」が調査対象となっている。優秀な実践といったポジティブな側面に着目する“実践志向性”は、価値中立的な“説明”の問いであれば拾うことができるようなネガティブな側面である不整合を掬いきれていない可能性がある。一方、教育学と教育社会学の関係性と同様に、社会福祉を対象とした社会学的な研究である福祉社会学も存在するが、その中でもソーシャルワークについての社会学的研究の蓄積は乏しい(菊池 2018)。社会福祉の政策・制度・サービスを指す社会保障についての社会学的な研究は比較的多く蓄積されているが、その応用も限界がある。例えば仁平(2018)は、教育制度にも社会保障制度にも通底する〈教育〉の論理と〈無為〉の論理の2つを導出している。〈教育〉の論理とは、「〈主体化された者/未だされてない者〉という区別のもと、後者から前者への変化を要請する形式的な意味論」である。一方で〈無為〉の論理とは、「存在を、より良い存在になるという条件抜きで、そのまま肯定する意味論」である。仁平は、教育だけに〈教育〉の論理が、社会保障だけに〈無為〉の論理があるわけではなく、教育制度にも居場所を始めとしたケア的側面があることによって〈無為〉の論理が存在し、社会保障制度にもワークフェア(就労を条件とした111

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