早稲田教育評論 第37号第1号
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われる指導と整合的な関係を取り結べるとは限らない。このように考えるのは、ソーシャルワークと指導それぞれの特徴に由来している。まずソーシャルワークは、学校領域に限らず、ソーシャルワークが展開される現場から向けられる期待に制約を受けることが多い。ソーシャルワークの教科書では、どのような現場においても、前述のソーシャルワーカーの倫理綱領に準拠した実践を展開することが示されている。しかし、ソーシャルワーカーが活躍する実践現場がソーシャルワークと同じ論理で動いているとは限らない。病院で働く医療ソーシャルワーカーを例としよう。病院は、ときに医療ソーシャルワーカーに対して病床稼働率を上げるために過度の退院を促している場合がある。こうした背景には、退院支援に診療報酬が加算されるようになったことに伴う病院経営の都合がある。結果、そうした職場の意向が、じっくりと退院までに時間をかけて環境調整を行うことでクライエントの利益を最優先したい医療ソーシャルワーカーに対してジレンマを感じさせていることが明らかにされている(北川・吉田 2019)。つまり、病院におけるソーシャルワークでは、ソーシャルワーカーが重視したい「クライエントの利益の最優先」という価値と、病院の都合との間で不整合が生じるときがあるといえる。こうした特徴は、ソーシャルワーカーが福祉とは異なる価値観を有する集団に属することから「マージナルマン」(本多 2014)と呼ばれてきた所以でもある。以上をふまえれば、教育と福祉のマージナルマンであるSSWrによって学校で展開されるソーシャルワークも、学校における指導との間で何らかの不整合を生じさせていると考えるのは想像に難くない。次に学校において教員によって担われる指導であるが、指導は少数の教員で多数の児童生徒を相手にするという構造的制約のもとで発展してきた。明治期の学校は、農村社会から子どもを引きはがして通わせることに始まった。学習に意味を見出さない子どもたちを学校に引き付けるために、学校には苦楽を共にする生活共同体のように学級が作られていった。(柳 2005)。戦後に制定された「公立義務教育諸学校の学級編制および教職員定数の標準に関する法律(義務標準法)」においても学級は教員配置の基本単位とされ、多数の児童によって構成される集団を、少数の教員でみるという構造的制約は変わらなかった。こうした状況下で、ルールを作り守る、互いに関わり合うといった集団活動において必然的に生じる力学を積極的に捉え、それを児童生徒の成長に活用していく(河村 2010)工夫が積み重ねられてきた。一方で、集団を相手にするゆえに指導の対象となる範囲が限定的になることはなく、むしろ指導の対象となる範囲は広がっていった。生活共同体としての学級を基盤とした指導においては、教科教育に止まらずに子どもの心身や基本的生活習慣も視野に入れた全人的な指導関係(Cummings 1980=1981、恒吉 1999)が取り結ばれ、校内のすべての活動に何らかの教育的意味が付与されるようにもなった。教育的関係を結ぶ場面を無境界的に増やしていくことで、ある場面での教育的関係の成立が別の場面の成立に寄与するという正の循環が生じるからである(藤本 2021)。こうした①集団性を基盤に、②全人的な指導関係を築くという2つの特徴を有することになった日本の学校における指導は、「指導の文化(酒井 1999)」と呼ばれる独自の方法論として発展してきた。これに対してSSWrによって展開されるソーシャルワークでは、一部の児童生徒に対して、個109

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