早稲田教育評論 第37号第1号
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注1 「本館之工作概要」、『江蘇省立徐州民衆教育館周年記念特刊』、1933年、99〜263頁。2 高陽『民衆教育』、商務印書館、1933年、44頁。3 大里浩秋等『近代中国・教科書と日本』、研文出版、2010年。この著書は、緻密な史料に基づいて、中華民国期の歴史教科書、国語教科書、地理教科書、修身教科書に対する内容分析から、中国の領土空間、国恥、日中関係、ナショナリズムなどの諸問題を論考した。中華民国期の中国の教科書に関する代表的な一冊である。源と流行』20において、ナショナリズムの起源と形成過程を歴史的に述べた。アンダーソンによれば、通常個人にとって外在的で拘束的に感じられるナショナリズムやナショナリティという概念は、むしろ逆に人々がそれを想像するプロセスに依拠して再構成され、人々の相互作用によって作り出された「仮想的存在」である。その中で、民衆に共同体意識や国民意識を生み出させる媒体として機能する言語は、共同体の形成に重要な役割を果たす。したがって資本主義による大量の出版物(特に新聞・小説など)はこういった統一化された言語の形成につながるものであり、出版物は「想像の共同体」を作る際に最も必要な道具であるとされた。一方、当時の中国は識字率が極めて低く、新聞や小説といった共同体意識を創出する媒体はあまり機能していなかった。その代わりに、全国的な範囲で普及していた民衆教育施設で使われた『民衆学校課本』などの識字課本は、当時の中国におけるナショナル・アイデンティティの創出・維持、とさらにそれを強化するための重要な手段として用いられてきたことが窺える。このような識字のための教科書を通して、民衆は国旗や国歌、国暦、国慶など国のシンボルを学習・体得して、共同の中華民国のアイデンティティを形成した。しかし本稿で論じたように、その時期の民衆教育の教科書に記述された内容を確認すると、『民衆学校課本』に掲載された中華民国に関する内容には、国民党政権のイデオロギーが混在していた。民衆が国旗や国歌などの中華民国のシンボルを受け入れ、中華民国に対する一体感が醸成される一方、この一体感には、「国民党政権の指導のもとでの中華民国」のニュアンスが含まれていたと考えられる。また、『民衆学校課本』の中では、政治に関わる内容のほか、一般教養や日常生活の内容も充実していた。しかし、歴史上の人物の殆どは愛国英雄であり、日常生活の内容としては民衆の生活様式を国民政府が求める価値規範に合わせるものが多かった。当時の教科書は、精緻に内容を選別、編成することによって、民衆の価値観を国民政府の価値観に一致させるように教育・教化を行おうとしたのである。しかし前述のように、民衆教育教科書の出版に当たっては教育部のみならず、民衆への教育実践を行っている各教育団体も教科書の編成に携わった。それぞれの主体が出版した教科書の目的やその内容には違いがあるが、本稿ではこれらの内容について論じていない。今後の課題として、行政以外の教育団体が出版した民衆教育の教科書に対する分析を行い、その時期の民衆教育の内実をより多面的に検討したい。105

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