早稲田教育評論 第37号第1号
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5.考察:教科書と「想像の共同体」の創出 ら生まれた「公共」の公と必ずしも一致しているとは言えなかったことがある。また、中国の従来の公概念にしても、それは士大夫や知識人の頭脳で醸成され、継承されてきた治世の観念、秩序の思想といったような永遠の理念であるため、一般民衆の現実生活そのものの直接的な反映ではなかった19。つまり一般民衆にとっては、国家の公も天下の公も、あるいは国民の公も、遠い空の上のことでしかなかった。このような「公」に対する認識が薄い、あるいはそもそも「公」に対する認識がない民衆に対して、当時の教科書では「皆の福利」というような内容を通して、「公共」という近代的な概念を植え付けようとしていたことが読み取れる。また、『民衆学校課本』に提起された団結、衛生、健康、勤勉、節約、好学といった生活の模範は、実は1934年に国民政府が提唱した新生活運動という政治運動に関連している。新生活運動とは、「礼義廉恥」という中国の伝統道徳を基準とし、一般民衆の生活様式と社会倫理を改進する運動である。国民政府はこのような政治運動を通して、「粗野卑陋」の状態に陥った国民の生活に規律、清潔、整頓を課すことで国家と民族の「復興」を期待した。こういった新生活運動の理念は『民衆学校課本』の内容にも現れている。ここでは、第4冊第7課「新生活」を一例として、その内容を紹介する。この「新生活」という文章の中には、新生活運動の基本的な精神である「礼義廉恥」、そして実施原則である「斉整、清潔、簡単、質素、確実、迅速」がそのまま用いられている。新生活によって「民衆の復興が実現できる」、「前途に光明を見いだす」というような記述から、民衆の新生活の価値規範に基づいた生活様式を求めていたことがわかる。このような内容から、国家が望んだ「国民」の姿も浮かび上がってくる。つまり新生活運動に提唱されるように、礼義廉恥を持ち、斉整、清潔で生活を送り、団結して民族の復興が実現できる者は、当時の国民政府が求める国民像だと言える。アメリカの政治学者ベネディクト・アンダーソンは著書『想像の共同体:ナショナリズムの起104「新生活」我々は前途に光明を見いだす。衣食住の全ては面目一新された。斉整、清潔、簡単、質素、そして確実、迅速。礼義廉恥を覚えよう!礼を持って人を遇する。義を持って事を制する。廉を持って物を接する。国家と個人の恥を銘記する。悪習を規制し、良習を養成する。大衆の力量で新たな生活を整える。この新たな生活から民族の復興が実現できる。

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