早稲田教育評論 第37号第1号
11/228

2.通交の始まりと多褹嶋の設置(7世紀〜8世紀初め)墳文化の南限は九州島までであった。以上のように、先史時代の南西諸島においては、縄文、弥生、古墳と時代を経るごとに日本列島の文化が及ぶ範囲は北上し、日本列島の文化圏は収縮していった。古墳時代まで、南西諸島にヤマト政権の勢力が直接的に及んでいたわけではなかったが、7世紀初頭から南島との通交が史料にみえるようになる。多褹嶋設置に至る古代国家の南島政策についてはすでに何度か論じているが15、ここでは境界の変遷という視点からいま一度整理してみたい。『日本書紀』推古天皇二十四年(616)条に、三月、掖久人三口帰化。夏五月、夜勾人七口来之。秋七月、亦掖玖人廿口来之。先後安二置於朴井一。未レ及レ還皆死焉。とあるのが南島人についての初見であり、ヤク人を帰化させたり、安置したりしている。安置した人々については、「未レ及レ還皆死焉」とあることから帰ることが前提だったと思われる。「帰化」については中華思想に基づく行為であり、『日本書紀』編纂時の文飾である可能性も高いが、少なくとも九州島の南方に島々があり、それらがヤマト政権の勢力圏外であることは認識されていたということである。『日本書紀』推古天皇二十八年(620)八月条にも「掖玖人二口、流二来於伊豆嶋一。」とあり、ヤクの人々を漂着などの形で認識する機会があったものと考えられる16。その後、舒明朝に再びヤクとの通交記事がみえる。『日本書紀』舒明天皇元年(629)四月条同   舒明天皇二年(630)九月是月条田部連等、至レ自二掖玖一。同   舒明天皇三年(631)二月庚子(10日)条掖玖人帰化。ヤクに田部連という人物を派遣して実態調査を行い、その結果としてヤク人が帰化したということであり17、それまでの漂着記事などと比べてヤクに対してヤマト政権がより積極的に関わっていることが分かる。このように、7世紀前半の段階で南方の島々の存在は認識されており、そこの人々は服属させるべき「異民族」として扱われるようになった18。7世紀後半になると、多禰嶋人に対する饗宴を飛鳥で行う記事19や、多■嶋に使節を派遣している記事20がみられるようになる。これらの使節は、『日本書紀』天武天皇十年(681)八月丙戌(20日)条に、とあるように、多■嶋の調査を調査し、「多■国図」の貢上を行っている。こうした調査の目的は、小中華意識との関係で理解することができる。百済や高句麗の滅亡後、それらの残存勢力や耽羅は倭(日本)に外交使節を送ったが、これらを朝貢使節として扱うことで辛うじて倭(日遣二田部連〈闕レ名〉於掖玖一。遣二多■嶋一使人等、貢二多■国図一。其国去レ京、五千餘里。居二筑紫南海中一。切レ髮草裳。粳稲常豊。一殖両收。土毛支子・莞子及種々海物等多。5

元のページ  ../index.html#11

このブックを見る