1.「日本」以前の南西諸島と日本列島の文化(旧石器時代〜6世紀)4日本列島において全国的な政治的統合が進むのは、ヤマト政権が成立する3世紀末頃であるが、大王を中心とする豪族の連合体であった倭国(ヤマト政権)が、中央集権国家に変質し、国号が「日本」と定められるのは、7世紀後半のことである。この背景には、白村江での敗戦という対外的危機や壬申の乱という内乱を経て、大王による豪族支配が強化され、神格化された天皇の下で豪族が統制される国家形態へと移行したことが関係している6。この時期に「国境」は誕生したが7、裏を返せばそれまで国家の主体性は確立していなかったということであり、その意味で国家の支配領域の限界(=「国境」)を南西諸島に見出すことはできないことになる。しかし、日本列島を統一する集権国家としての「日本」の成立以前にも、日本列島内には文化的な共通性や政治的な連合の広がりはみられ、その領域の限界は検討する価値があるだろう。そこで本節では、「日本」誕生の以前における南西諸島の境界についてみていきたい。琉球諸島(奄美・沖縄・先島)には旧石器時代から人が住んでいたことが考古学的に明らかになっているが、その後、新石器時代へと移行する時期に新たな人々が植民したとも考えられており、旧石器時代の人々が現在の琉球諸島の人々の直接の先祖であるかは疑問視されている8。日本史の一般的な時代区分でいうところの縄文時代〜平安時代半ばは、奄美・沖縄は新石器時代にあたり、沖縄史では貝塚時代とされる9。貝塚時代前期は縄文時代にあたり、縄文時代とほぼ並行して始まるとともに、その強い影響を受けていたことも明らかとなっており10、広義の縄文文化圏に含まれる。しかし、先島では奄美・沖縄とは異なる文化が営まれており、台湾やフィリピンと近い地理的環境との関係が指摘されている11。このように、南西諸島における縄文文化の南限は沖縄諸島であった。貝塚時代後期は、弥生時代〜平安時代半ばにあたるとされる。金属器や稲作の技術を持った人々が朝鮮半島から北部九州に渡来し、日本列島は急速に弥生化していった。南西諸島では、種子島・屋久島などの大隅諸島までは稲作農耕を基本とする弥生文化が定着したが、吐噶喇列島以南の島嶼地域では稲作農耕文化は定着しなかった。しかし、奄美・沖縄でも弥生土器などの弥生系遺物が出土しており、また弥生時代の北部九州ではゴホウラやイモガイなどの南海産大型貝類を材料とした貝輪が威信財として使用されていたことなどから、両者の間には交流があり、弥生文化圏の中で奄美・沖縄が一定の役割を果たしていたことが分かる。しかし、奄美・沖縄はこの時期に農耕社会となることはなく、基本的に狩猟・漁撈・採集に依存した生業を営んでいたことから、貝輪を必要とする弥生社会からの一方的な要請と働き掛けに対して、奄美・沖縄が貝輪素材の供給を受動的に請け負っていたにとどまり、積極的な弥生社会への関与や弥生文化の導入は行っていなかったと考えられている12。このように、南西諸島における弥生文化の南限は大隅諸島であった。日本列島ではその後、小国どうしが争いながら各地で政治的統合が進んだ。豪族は古墳を営んだが、古墳は弥生時代の墳丘墓よりも大規模で、墳形や埋葬法に画一性がみられ、この時代の統合への動きを表している。特に前方後円墳の分布のひろがりは、豪族の政治的連合であるヤマト政権の勢力拡大と深く関係しているとされる。前方後円墳をはじめとする古墳は南部九州まで分布しているが13、南西諸島には高塚古墳は存在せず、古墳文化は及んでいない14。このため、古
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