早稲田教育評論 第36号第1号
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役割の歴史─」『横浜国立大学教育人間科学部紀要Ⅱ人文科学』2004(02),135-136頁。4 『婦女雑誌』(1915年〜1931年)は民国期に最大の影響力を持った女性雑誌である。また、『婦女雑誌』の創刊は新文化運動期であり、当時女性の解放を提唱していた『新潮』、『新青年』などの雑誌と比べると、比較的に保守的な位置に当たり、「良妻賢母」の観念を重視していた。しかし1921年に入ると、女性解放あるいは家庭革新などの問題が重視されるようになってきた。遊鍵明著(大澤肇訳)「『婦女雑誌』から近代家政知識の構築を見る─食・衣・住を例として」,『「婦女雑誌」からみる近代中国女性』,村田雄二郎,研文出版,2005年,74頁。5 本稿で考察する知識人家庭は、西洋からの新思想を積極的に受容した進歩的な知識人が構築した家庭を指している。近代中国では、社会改良の一環として家庭改良が行われるべきであると知識人の中で多く議論され、一夫一婦とその未婚の子どもから構成される核家族がその典型的な家庭像である。そこで、本稿で議論する知識人家庭は、家族構成からみると核家族であり、子育ての責任は両親が担うという西洋の近代家族に近い家庭を指している。6 江上幸子「近代中国の家族および愛・性をめぐる議論」『中国ジェンダー史研究入門』小浜正子(ほか)編,京都大学学術出版会,2018年,283頁。7 前掲 白水紀子「中国における『近代家族』の形成─女性の国民化と二重役割の歴史─」,135頁。8 楊妍「近代中国における新国民育成の一考察─『婦女雑誌』初期の家庭教育関連記事を中心に(1915年〜1920年)」『国際文化研究(オンライン版)』東北大学大学院国際文化研究科2021(27),47-62頁。9 瑟盧「現代青年男女配偶選擇的傾向」『婦女雑誌』第9巻第11号(1923年12月),43-54頁。10 楊尚松「我之理想的配偶」『婦女雑誌』第9巻第11号(1923年12月),60頁。11 何(2004)によると、「五四運動」以降の中国では、近代学校教育の経験を有し、学歴を持つ女性を「新婦女」と呼ばれ、1920年代中国の男性知識人による唱えた理想的な女性像である。何玮,「1920年代中国社会における「新婦女」─『婦女雑誌』を主なテキストとして」『ジェンダー研究』,2004(7),53-72頁。12 陳品娟「児童教育:母親的責任」『婦女雑誌』第13巻第1号(1927年1月),44頁。13 呂舜祥「母親對於子女應負的三種責任」『婦女雑誌』第12巻第6号(1926年6月),13頁。14 同上,14頁。15 伝統中国の親子関係は、「厳父慈母」と特徴され、子どもに厳しくしつけする父親と優しくしつけする母親をイメージしていた。また、父親の教育方法も体罰を行うことが多くみられる。その一方、「慈母」は子どもを溺愛することが多く見られる。16 吴祖襄「我将怎様做父母親:和大家談談可能罢」『婦女雑誌』第11巻第11号(1925年11月),1722頁。17 鄭宗海「『怎様做父亲?』的一个商榷」『新教育』第5巻第1−2号(1922年8月),127頁。18 同上,128頁。19 たとえば、蔡元培が執筆した中学校の修身科用テキストである『中学修身教科書』において、新文化運動以前の思想内容を見ると、「子女の道は『孝』」、父母の道は『慈』」などといった儒教主義的な家族観、子ども観が見られるという。湯山トミ子,「近代中国における子ども観の社会史的考察(2)近代的子ども観の提起─児童中心主義と人類主義、『個』の創出─」「成蹊法学」(82),2015年,353-398頁20 景宋(許広平)は、中国の文学者魯迅の夫人であり、婦女活動家である。景宋は筆名である。1923年北京女子師範大学に入学し、在学中、学生運動に参加した。その後、1928年から教員であった魯迅との同居生活に入った。1936年、魯迅が死去した後、その著作の整理に努めた。また、魯迅との共同生活を描いた文章も多くある。1920年代中国における近代家族の形成に関する一考察─知識人家庭における子育ての理想像とリアリティをめぐって─69

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