早稲田教育評論 第36号第1号
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ようになってきた。そのため、家計の一環として教育費を蓄える方法が提起された。実際は、労働者階層の子どもに教育を受けさせることは依然として難しいとされたが、この時期で特徴とされるのは、社会の教育関心は上流階層の子どもだけではなく、中流階層や普通の家庭の子どもにも教育を受けさせるように働きかけた点である。これまでの節では、民国期の代表的な刊行物に基づいて、新文化運動以降の1920年代に、西洋から流入した新文化の受容により、家庭教育の改良を模索した進歩的な知識人の理想とする親像と家庭教育像が何かを論じてきた。そして1920年代以前と比べ、子育ての内容について、児童中心主義に基づき子どもの個性を尊重し、科学的に育児することが極めて強調されたことを検証した。また、儒教主義的な子ども観を批判しながら、親子関係の平等化、子どもを独立した個人とみなすという近代的な親子関係や子ども観が提唱されるようになったのである。では、知識人が唱えた理想の親子像や家庭教育像は、現実には実現できただろうか。中国型近代家族の形成において、当時の知識人は、西洋から流入した新文化と伝統中国の旧文化をいかに融合させながら家庭教育の改良を模索してきたのだろうか。以下では、近代の知識人家族における子育ての実態をめぐって、具体的に考察する。第2節で検証したように、新文化運動以降の中国では、女性の社会進出が一層進んだ一方、家庭内での役割が依然として重要視されていた。女性の家庭的役割としては、使用人や乳母を使わず、育児の責任を自ら担うべきであることや科学的な知識で育児を行うことが唱えられた。しかし、このような母親像は、現実には実現不可能に近いとも言えよう。新文化運動を経験した知識人女性は、女性解放運動のリーダーと見られ、家庭のために仕事を辞めることを強く拒否し、その結果、より経済的に豊かな家庭では、使用人を使うことで家事と一部の育児責任を任せることがほとんどであった。たとえば、新文化運動期に活躍していた知識人である任鴻雋、陳衡哲夫婦の長女である任以都のインタビュー記録では、彼女が小さい頃の家庭における使用人の雇用について、以下のように述べている。(前略)日中戦争の前、家では4、5人の使用人を雇った。私はよく彼らに言いつけて仕事をさせた。放課後、家に戻ってから、自分がやるべきこと、例えばカバンを部屋に置きにいくことや電灯をつけることなど、私自身の力でできることでも使用人にやらせた。気に入らない場合、彼らを殴る場合さえある。ある日、それを母に見られ、非常に怒らせてしまった。母は私を叱って、学校にも行かせなかった。私に一日中家事をやらせて服を洗わせた。使用人の苦労を体験させるためである34。任以都が述べたように、家事を分担するために、使用人を雇うことが当時の知識人家庭でよく見られる。卞趙如蘭は自伝の中で、使用人から歌を学んだと述べる35。また、許広平も「魯迅先1920年代中国における近代家族の形成に関する一考察─知識人家庭における子育ての理想像とリアリティをめぐって─655.近代中国の知識人家庭における子育てのリアリティ(1)有職女性である母親のリアリティ

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