景宋(許広平)20「魯迅先生与海嬰」(魯迅先生と海嬰)で、父親である魯迅は息子の海嬰との日常生活を描いた。海嬰が生まれてからの世話について、母親の許広平に加えて、父親である魯迅も子育てに参加していた。赤ん坊である海嬰の世話について、夜12時から2時までは魯迅が担当し、2時から6時までは母親の許広平が世話したと厳密なスゲジュールを作った。また、魯迅は子どもに歌を唄って寝かしつけていた様子も描いている。子どもが大きくなると、仕事が忙しい中でも、「毎日、昼食後に必ず海嬰と一緒にいる時間を設けた」21と述べる。教育方法について、子どもがわがままでちゃんと話を聞かないときには、叩くこともあったが、それは「彼が死去までに数えるほどしかない。さらに、手元に何枚かの紙を丸めて、軽く叩くくらいであった」22と述べる。また、繰り返し質問した海嬰に丁寧に答えていた父親としての魯迅の様子も描かれている。許広平が描いた父子間の日常生活からは、父親である魯迅が、伝統中国に見られる「厳父」のイメージからは一変し、子育てにも積極的に参加していたことが分かる。また、子どもの興味に従い、優しく教育する父親像を読み取ることができる。魯迅が息子にこのように教育を行う理由として、許広平は「彼は大家族で生まれ育てられたので、旧教育により子どもである自分が抑圧されていたと強く感じた。そこで、自分の子どもにはそのような教育を絶対に受けさせたくないと考えた。特に旧家庭でしつけられていた礼儀作法は、子どもに気の効かない人間になれと教える。そのため、彼は絶対に海嬰にそのようにさせたくない。その代わりに、『敢然として言う、敢然として笑う、敢然として叱る、敢然として戦う』のような人間に育ってほしいという魯迅の教育方針があった23」と述べる。以上から、近代家族の構築により、父親は母親と同じように子育てする責任を担うべきであるという考え方が一部の知識層の中に存在していたことが分かる。また、近代家族の父親は、旧中国でイメージされた「厳父」への批判により、子どもと平等な関係性の構築に力を入れていた。1920年代に新しい家庭を構築した知識層のほとんどは、伝統的な旧家族で生まれ育てられたため、新文化運動で高まった民主、自由の風潮から影響を受けた上、旧家族の慣習を強く批判することにより、子どもと新たな関係性を形成し新たな家庭モデルを構築することを模索し始めたのである。1920年代の中国では、近代家族の形成に伴い、家庭教育をいかに改良するのかが課題であった。新文化運動を経た中国では、西洋から流入した児童中心主義の思想が近代家族に導入され、子どもの興味や関心に基づく適切な教育を行うことが知識層の中から提起されるようになった。また、新文化運動期に盛んになった女性解放の運動により、性関係や性道徳が公に議論され、それは次世代への家庭教育にも影響を与え、家庭内において、子どもに性教育を行うべきであると進歩的な知識人に提唱されるようになった。さらに、1920年代に入り、子どもの進学率の向上に伴い、子どもの教育を受ける機会を確保するために、家庭内において子どもの教育費を蓄えることも提案された。そこで、以下では、①家庭教育における「児童化」の提起、②家庭における子どもに対する性62早稲田教育評論 第 36 巻第1号4.1920年代中国における知識人による家庭教育の改良
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