どもを大切に守ることができると唱えた。③については、子どもを保母や使用人に任せると、たとえば使用人の性格や性質が悪い場合、子どもに対して悪い影響を与えると述べている14。呂の言説では、1920年代の中国では、近代家族の形成に伴い、子どもを家族の中心として大切に守るべき存在であると考え、それまでのように子どもを他人の手に任せることは子どもの教育に悪い影響を与えるため、母親の手で大切に守るべきであるとの提唱がなされており、当時の知識層の母親観と育児観が伺える。1920年代の中国では、母親の育児責任が強調される一方、一部の知識人の間では父親の育児責任も提起されるようになる。『婦女雑誌』第11巻第11号では、「我將怎樣做父母親」(私は将来、どのように親となるか)の特集号を掲載し、将来、どのような母親、あるいは父親になりたいのかについて読者からの寄稿を求めた。この特集号では、合計12人の読者からの寄稿を掲載し、うち9人は男性で、残りの3人は女性であった。9人の男性からの投稿を分析してみると、彼らは伝統中国で特徴とされる「厳父」15を批判しており、これにより子どもと平等に対話できる新たな父親像が提起された。たとえば吴祖襄「我将怎様做父母親:和大家談談可能罢」(将来どのような親となるべきか:読者とその可能性について語り合う)の中で、伝統中国の家庭の子どもは父親に対してひたすら従順することを「孝」と見なすことに批判を行い、「厳」は子どもの父親に対する恐怖心を起こさせ、結局、「父と子の間は、太平洋ほど隔てられている!」16と指摘した。また、伝統中国で特徴とされる「厳父慈母」の親子関係の代わりに、子どもの興味や関心に十分に注意を払い、子どもの能力を発揮させることを勧める。さらに、親は子どもに対して説教ではなく、自分の手本を示して子どもを教育することも強調している。近代家族を構築する中で、良い父親はどのようなイメージであるのかについて、鄭宗海「『怎様做父亲?』的一个商榷」(「どのように父親となるか」に関する一つの議論)では、良い父親になるために、「子女から心から愛される」17ことを唱え、具体的な方法について、積極的な面と消極的な面から提示した。積極的な方法については、①父親は毎日1時間あるいは半時間、子女の遊びを導くこと、または子女と談話すること、②15歳以降、家の何事であっても子女と相談して決めるべきであること、と述べている。また、消極的な面については、①父親は子女を叱るべきではない、②父親は子どもに怒るべきではないと述べている18。以上から、近代家族では、子どもの意見を尊重しながら平等な父子関係を構築することが当時の知識層の間で主張されたのである。先行研究で指摘しているように、新文化運動以前では、進歩的な知識人の中にも伝統的な儒教主義の子ども観が根強く、父母との関係によって規定される子どもの存在が最も一般的である19。しかし、新文化運動により、伝統的な儒教道徳は徹底的に批判され、子どもを独立した個人とみなすという西洋の近代的な子ども観が知識人から受け入れられたといえよう。さて、当時のメディアで唱えられた父親像は実際に知識人の家庭では実現できたのだろうか。1920年代中国における近代家族の形成に関する一考察─知識人家庭における子育ての理想像とリアリティをめぐって─613.近代家族における理想の父親像─「厳父」批判を通して
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