38 この事件の詳細については、[中村 1996][永山 2009]を参照のこと。39 薩摩国や多褹嶋の設置に関する記事はないが、永山修一は薩摩国は702年の半ばに成立したとし[永山 2009]、また多褹嶋は702年に役人を派遣した後、714年に多褹嶋印が給付された(『続日本紀』和銅七年四月辛巳条)ことで名実ともに行政区画として成立したとする[永山 2007a]。40 屋久島は多褹嶋を構成する島であるとされるが、『続日本紀』霊亀元年(715)正月朔条に「夜久」からの朝貢がみえることから、当初は多褹嶋の領域ではなかった可能性がある[山里 1996]。しかし、『続日本紀』天平五年(733)六月丁酉(2日)条に「益救郡大領外従六位下加理伽」らに「多褹直」姓を賜う記事があることから、733年までに多褹嶋に編入されたものと考えられる。41 大隅諸島と奄美群島の間に南北に長く連なる吐噶喇列島については、8、9世紀を通して史料にみえない。吐噶喇の島々はどれも周囲が断崖のため、島影を見ながらの航海に利用されることはあっても、容易には寄港できなかったと考えられる。[山里 2004]そのため、少なくとも古代国家が領域的な支配を行ったとは考え難い。42 辺要国の変遷については、[仁藤 2014]を参照のこと。43 [相澤 2005a]44 [三上 2017]など45 『続日本紀』天平十五年(743)二月辛巳(11日)条46 『続日本紀』天平勝宝四年(752)九月丁卯(24日)条47 『続日本紀』天平勝宝四年(752)十一月乙巳(3日)条48 [相澤 2005b]49 [乕尾 2004]50 壱岐については対馬と異なり、「一支国(一大国)」の王都と考えられる環濠集落が発見された原の辻遺跡の周辺などには水田が広がっている。しかし『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝には、「多二竹林叢林一、有二三千許家一。差有二田地一、耕レ田猶不レ足レ食。亦南北市糴。」とあり、対馬よりは田地があるものの、それでも食糧が足らず、交易によって生計を立てていた様子が記されている。51 [乕尾 2004]52 佐渡国と、『延喜式』段階で存続していない多褹嶋・値嘉嶋を除くすべての「辺境島嶼国」は「下国」とされている。53 [拙稿 2021b]54 [永山 1985]55 [中村 1989]56 [坂上 2001]57 [鈴木 2015]58 『類聚国史』巻159・口分田・延暦十九年(800)十二月辛未(7日)条59 『類聚三代格』貞観十一年(869)三月七日付太政官符には、「彼国地在二辺要一。堺近二新羅一。警備之謀当レ異二他国一。」とある。参考文献・相澤央「古代北疆地域の郡制支配」(『越後と佐渡の古代社会』高志書院、2016、2005a初出)・───「北の辺境・佐渡国の特質」(『越後と佐渡の古代社会』高志書院、2016、2005b初出)・───「越後国の成立と蝦夷政策」(『越後と佐渡の古代社会』高志書院、2016、2007初出)・網野善彦『日本社会の歴史(上)』(岩波新書、1997)・柿沼亮介「律令国家形成期における対外関係と日本の小中華意識」(『日本史攷究』41、2017)38早稲田教育評論 第 36 巻第1号
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