於二対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等一、置二防與一レ烽。又於二筑紫一、築二大堤一貯レ水。名曰二水城一。饗二多禰嶋人等於飛鳥寺西槻下一。饗二多禰嶋人等于飛鳥寺西河辺一。奏二種々楽一。遣二多禰嶋一使人等、貢二多禰国図一。其国去レ京、五千餘里。居二筑紫南海中一。切レ髮草裳。粳稻常豊。一殖両收。土毛支子・莞子及種々海物等多。『日本書紀』天武天皇十二年(683)三月丙午(19日)条23 [中条町史編さん委員会 2004]24 『日本書紀』斉明天皇四年(658)・五年(659)・六年(660)条に関連記事が散見される。25 [鐘江 1993]26 [中条町史編さん委員会 2004]27 「威奈真人大村骨蔵器銘」。なお、『続日本紀』慶雲三年(706)閏正月庚戌(5日)条には「以二従五位上猪名真人大村一為二越後守一。」とある。28 出羽柵の設置時期は不詳であるが、この時期の蝦夷征討事業の過程で設置されたと考えられる。29 『続日本紀』和銅七年(714)十月丙辰(2日)条・霊亀二年(716)九月乙未(23日)条・養老元年(717)二月丁酉(26日)条。さらに、721年に出羽国は陸奥按察使の管内となり(『続日本紀』養老五年八月癸巳条)、出羽国への人的・物的支援は基本的に陸奥按察使の体制で担われるようになる。越後国の蝦夷対策における後方支援的役割は、より臨時的なものへと変化した。[相澤 2007]30 [拙稿 2021a]31 『日本書紀』天智天皇三年(664)是歳条に、とあるが、ここでの「嶋」は地理的な意味での島であろう。32 壱岐については「壱岐国」という用例は正史にみえず、『日本書紀』皇極天皇元年(642)十月丁酉(15日)条には「新羅弔使船與二賀騰極使船一、泊二于壱岐嶋一。」とあるが、ここでの「嶋」も行政区画ではなく、地理的な意味での島を表していると考えられる。また、多褹の令制国としての初見は、『続日本紀』和銅二年(709)六月癸丑(29日)条の「勅、自二大宰率一已下至二于品官一、事力半減。唯薩摩・多禰両国司及国師僧等、不レ在二減例一。」である。33 『日本書紀』推古天皇二十四年(616)条三月、掖久人三口帰化。夏五月、夜勾人七口来之。秋七月、亦掖玖人廿口来之。先後安二置於朴井一。未レ及レ還皆死焉。『日本書紀』推古天皇二十八年(620)八月条掖玖人二口、流二来於伊豆嶋一。34 『日本書紀』舒明天皇元年(629)四月条35 この時期から倭・日本と南島との通交が活発化し、南島人の朝貢を促したり、支配を進めた背景として、百済・高句麗の残存勢力や耽羅による倭への遣使が途絶する中で、倭・日本の小中華意識を満たすために新たな化外人が必要とされたことが考えられる。[拙稿 2017]36 『日本書紀』天武天皇六年(677)二月是月条『日本書紀』天武天皇十年(681)九月庚戌(14日)条37 『日本書紀』天武天皇八年(679)十一月己亥(23日)条大乙下倭馬飼部造連為二大使一。小乙下上村主光父二為小使一、遣二多禰嶋一。仍賜二爵一級一。『日本書紀』天武天皇十年(681)八月丙戌(20日)条遣二田部連〈闕レ名〉於掖玖一。遣二多禰一使人等返之。日本古代の国家領域と「辺境」支配37
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