早稲田教育評論 第36号第1号
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不レ得レ入。更返二於本郷一。忽逢二暴風一、漂二蕩海中一。然有二大幸一、而泊二于聖帝之辺境一。以歓喜。遣二近江臣満於東山道使一、観二蝦夷国境一。遣二宍人臣雁於東海道使一、観二東方浜レ海諸国境一。遣二阿倍臣於北陸道使一、観二越等諸国境一。36とあり、肥後国葦北への百済人の来着を筑紫大宰から中央に奏上している。12 [バートン 2001]13 『旧唐書』巻199上・東夷伝・日本、『新唐書』巻220・東夷伝・日本14 朝鮮半島の史料である『三国史記』には670年に変更されたと記されているが(巻6・新羅本紀第六・文武王十年十二月条)、『三国史記』の成立は1145年であり、さらに対外関係の記事の多くは『新唐書』に依拠していると考えられているので、この記事だけで670年に国号変更が行われたと考えることはできない。15 712年に死去した杜嗣先の墓誌や、734年に死去した井真成の墓誌。なお、678年に死去した祢軍の墓誌の存在が2011年に公表されたが[王 2011]、ここにみえる「日本」が「日本」国号を表すかどうかについては評価が分かれている。16 『日本書紀』天武天皇三年(674)三月丙辰(7日)条に、対馬国司守忍海造大国言、銀始出二于当国一。即貢上。由レ是、大国授二小錦下位一。凡銀有二倭国一、初出二于此時一。故悉奉二諸神祇一。亦周賜二小錦以上大夫等一。とある。対馬で銀が産出したという記事であるが、「倭国」で初めてのことであると述べている。この記事について吉田孝は、720年に完成した『日本書紀』は国号としての「日本」を重視し、「日本」号が使用されていなかった時期の出来事についても「日本」号を用いているが、ここであえて「倭国」と書かれているのは、おそらく原史料の表記によるもので、674年段階ではまだ正式には「倭」が「日本」と改称されていなかった可能性が高いとする。[吉田 1997]また、『続日本紀』慶雲元年(704)七月朔条に、正四位下粟田朝臣真人、自二唐国一至。初至レ唐時、有レ人、来問曰、何処使人。答曰、日本国使。我使反問曰、此是何州界。答曰、是大周楚州塩城県界也。更問、先是大唐、今称二大周一。国号縁レ何改称。答曰、永淳二年、天皇太帝崩。皇太后登レ位、称号二聖神皇帝一、国号二大周一。問答略了、唐人謂二我使一曰、亟聞、海東有二大倭国一。謂二之君子国一。人民豊楽、礼義敦行。今看二使人一、儀容大浄。豈不レ信乎。語畢而去。とある。702年の大宝の遣唐使が、国号を「大倭国」だと思っている唐人とやり取りする場面が描かれており、その中で自分たちのことを「日本国使」としているので、702年段階では確実に「日本」という国号が用いられていたと考えられる。17 『万葉集』にも、「大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ」(巻19-4260)、「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ」(巻19-4261)という歌が詠まれている。18 吉田孝は、「日本」は天皇家の王朝名であるとする。[吉田 1997]19 [拙稿 2021a]20 『日本書紀』崇峻天皇二年(589)七月朔条に、とあり、東山・東海・北陸道に使者を派遣して、「諸国境」を観察させたという。これは畿内東方地域における国造制の一つの達成を示すものではあるが[森 2014]、あくまで国造制に基づく地方支配であり、中央政府が地域を直接支配する段階ではない。21 近代国家のような「明確な国境」の意識が成立したわけではなく、あくまで中央政府が掌握し、国司を派遣して徴税等の支配を行う範囲が決まったということである。22 [熊谷 2004]早稲田教育評論 第 36 巻第1号

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