早稲田教育評論 第36号第1号
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注1 [網野 1997]2 [吉田 1997]3 [村井 2014]4 稲荷山古墳出土鉄剣にみえる「天下」や江田船山古墳出土鉄刀にみえる「治天下獲□□□鹵大王世」のように、「天下」意識は存在していたが、それは各地域の勢力を服属させることによっても満たされるものであり、王権が土地と人民を直接的かつ一元的に支配することが目指される段階ではなかった。5 『日本書紀』敏達天皇十二年是歳条6 [田中 2009][鈴木 2012]などを参照。7 『日本書紀』継体天皇二十一年(527)六月甲午(3日)条・同八月朔条・継体天皇二十二年(528)十一月甲子(11日)条・同十二月条8 『日本書紀』は朝鮮半島諸国からの外交使節が持参した贈り物を、服属の証として貢上する品を意味する「調」として表記する。9 [森 2014]10 [鈴木 2012]11 『日本書紀』推古天皇十七年(609)庚子(4日)条に、筑紫大宰奏上言、百済僧道欣・恵彌為レ首、一十人、俗七十五人、泊二于肥後国葦北津一。是時、遣二難波吉士徳摩呂・船史龍一、以問之曰、何来也。対曰、百済王命以遣二於呉国一。其国有レ乱そして外交では、唐の衰退などにより遣唐使の派遣間隔が開いていき、また新羅との間の外交使節の行き来も8世紀後半以降は途絶する。この後も蝦夷との戦闘は断続的に発生するものの、こうした状況の下で西や南の辺境の重要性は低下していく。そのため、九州本土の諸国が辺要から外れ、また多褹嶋が廃止されたと考えられる。『紅葉山文庫本 令義解』書入にみえる軍防令65東辺条の逸文には、朱云。不レ云二南辺一者。於南无レ辺者。とあるが、834年に施行された『令義解』において南の「辺境」は存在しないとされているのは、以上のような背景からである。その後、新羅海賊の活動活発化により、9世紀後半には隠岐国が「辺境」として扱われるようになる59。そして927年に完成した『延喜式』では、民部省式9辺要条に、陸奥国。出羽国。佐渡国。隠岐国。壱伎嶋。対馬嶋。右四国二嶋、為二辺要一。とある。対蝦夷政策の要地や外交使節の発着地、さらに新羅海賊の影響を受ける地域である陸奥国・出羽国や「辺境島嶼国」が「辺境」とされたのである。以上、「辺境」支配の変遷についてみてきた。古代国家の支配は地域や時代によって一様なのではなく、主に対外的な要因によってその輪郭は規定されるものであった。歴史教育においてもこのことを踏まえて、現代日本の「国境」と古代国家の領域を重ね合わせて理解することがないように注意していかなければならない。日本古代の国家領域と「辺境」支配35

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