早稲田教育評論 第36号第1号
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勅二大宰府一曰、去天平七年。故大弐従四位下小野朝臣老、遣二高橋連牛養於南嶋一樹レ牌。而其牌経レ年、今既朽壊。宜下依レ旧修樹、毎レ牌、顕二着嶋名并泊レ船処、有レ水処、及去就国行程一、遥見二嶋名一、令中漂着之船知上レ所二帰向一。34隅国一。計二其課口一、不レ足二一郷一。量二其土地一、有レ餘二一郡一。能満合二於馭謨一、益救合二於熊毛一、四郡為レ二。於レ事得レ便者。(中略)况暝海之外費損如レ此。加以、往還之吏漂亡者多。運送之民蕩没不レ少。守二無レ益之地一、損二有用之物一。求二之政典一、深迂二物議一。伏望、依レ件停隷、以省二辺弊一。伏聴二天裁一。謹以申聞。謹奏。天長元年 九月三日すなわち多褹嶋は824年に廃止され、大隅国に併合されたが、その理由として税収が上がらず、維持するのが大きな負担になっていることが指摘されている。しかし、多褹嶋のこうした地理的条件は8世紀から変わっていないはずである。それでも8世紀を通じて維持されていたということは、何らかの理由があるはずである。8世紀の南島に関する史料は多くないが、『続日本紀』天平勝宝六年(754)二月丙戌(20日)条に、とある。ここからは、遣唐使の漂着などに備えて南島の島々に目印となる「牌」を継続的に設置していたことが読み取れる。また、8世紀になっても隼人との緊張関係が継続していたことから、多褹嶋の政治的な重要性が維持されていたことも指摘されている54。平安時代は「辺境」支配において、国家構造の変化と対外的危機が交錯する時代である。律令法の枠組みだけで形式的・縦割り的に問題を処理することが困難になっていくことから、「辺境」の位置づけもより個別的なものとなり、統合的な把握は容易ではない。紙幅も尽きてきたことから、ここでは奈良時代からの変化と見通しのみ述べておきたい。9世紀になると、古代国家の防衛体制は変化していく。西海道では826年に兵士が廃され、健児制に類似した選士が置かれており、他の地域と同様の防衛レヴェルに変更された。そのためこの時期に西海道は、壱岐・対馬を除いて辺要から除かれたとする見解もある55。また、先述のように多褹嶋は824年に大隅国に併合された。このように「辺境」支配は変質していった。これは光仁朝以降、唐を盟主とする東アジアの国際秩序から離脱し、国内に異民族を抱える体裁をとる必要がなくなったことで、列島内の「帝国」構造が清算されていく56ことと関係している。対蝦夷政策では、東北三十八年戦争が開始された774年、蝦夷の上京朝貢が停止された。天皇の徳を慕って行うものとされた朝貢が停止されたということは、蝦夷が専ら征圧の対象となったことを意味する。そして征夷政策が終結する9世紀初頭には、蝦夷政策の基調にあった小中華思想は事実上消滅することとなる57。また対隼人政策でも、800年には大隅・薩摩両国で全面的に班田制が施行され58、この地域の人々は公民化された。このように、蝦夷や隼人について「異民族」性を強調した支配は行われなくなっていくのである。早稲田教育評論 第 36 巻第1号おわりに 平安時代の「辺境」支配

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