論二定諸国出挙正税一。毎レ国有レ数。但多褹・対馬両嶋者、並不レ入レ限。3-5 西海道諸国『続日本紀』天平宝字四年(760)八月甲子(7日)条に、3-6 南島『類聚三代格』天長元年(824)九月三日付太政官奏に、次のようにある。とある。大宰府所管の諸国が対馬嶋司の公廨を負担することを示す史料である。また、延喜主税寮式18対馬粮条に、凡筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後等国、毎年穀二千石漕二送対馬嶋一、以充二嶋司及防人等粮一。とあり、対馬嶋司や防人の粮は大宰府管内の国々から送られていた49。このように他国からの援助に頼らざるを得なかった対馬は、『続日本紀』天平十七年(745)十月戊子(5日)条に、とあるように、多褹とともに税制上の例外とされた。以上のように、人口が少なく耕地も狭い壱岐と対馬50については財政上の特別措置が講じられた。隠岐についてこのような財政上の特別措置が講じられた形跡はなく51、また佐渡は『延喜式』段階において「辺境島嶼国」の中で唯一「中国」とされた52ことを踏まえると、財政的に自立できない「辺境島嶼国」が「嶋」として扱われたと考えられる53。このように「嶋」という行政区画を設けたことが古代国家の西海道における「辺境島嶼」支配の特徴である。朝鮮半島との通交経路にあたる壱岐・対馬は、周辺諸国からの支援によって支出を賄ってでも所轄の行政区画を維持する必要性があったということであろう。勅、大隅・薩摩・壱岐・対馬・多褹等司、身居二辺要一、稍苦二飢寒一。挙乏二官稲一、曾不レ得レ利。欲レ運二私物一、路険難レ通。於レ理商量、良須二矜愍一。宜下割二大宰所レ管諸国地子一各給上。守一万束、掾七千五百束、目五千束、史生二千五百束。以資二遠戌一、稍慰二羈情一。とあり、大隅・薩摩・壱岐・対馬・多褹が辺要とされている。また、先掲の『類聚三代格』延暦十一年(792)六月七日付勅では、大宰府管内の西海道諸国はすべて辺要とされている。大宝令の段階での辺要国は壱岐・対馬だけであり、養老職員令70大国条で「鎮捍・防守及蕃客帰化」を担う国として挙げられているのは壱岐・対馬・日向・薩摩・大隅だけであったが、その後、西海道諸国すべてが辺要として扱われたということである。これは、8世紀を通じて西海道諸国では、「嶋」とされた「辺境島嶼国」を経済的に支える役割が整備されていったからであると考えられる。右、参議大宰大貮従四位下小野朝臣峯守等解称、謹検二案内一、太政官去二月十一日符称、件嶋南居二海中一、人兵乏弱、在二于国家一、良非二捍城一。又島嶋一年給物准稲三万六千餘束。其嶋貢調鹿皮一百餘領、更無二別物一。可レ謂二有レ名無レ実、多レ損少一レ益。右大臣宣、奉レ勅、宜下勘二利害一言上上者。南溟淼淼、無レ国無レ敵、有レ損無レ益。一如二符旨一、須三停レ嶋隷二大停二多褹島一隷二大隅国一事日本古代の国家領域と「辺境」支配33
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