早稲田教育評論 第36号第1号
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宜下京畿及七道諸国並従二停廃一以省中労役上。但陸奥出羽佐渡等国及大宰府者、地是辺要不レ可レ無レ備。所レ有兵士宜二依レ旧置一。32佐渡について、律令や集解諸説において「辺境」とする規定はないが、『類聚三代格』延暦十一年(792)六月七日付勅には諸国の兵士について、とあり、陸奥・出羽・佐渡と大宰府が辺要であるとされている。すなわち、8世紀末の段階で佐渡は「辺境」として位置づけられている。佐渡国は743年に越後国へと併合されているが45、752年に渤海使が「越後国佐渡嶋」に来着すると46、渤海使来着からひと月余で佐渡国は復置されている47。752年以前に渤海使は727年と739年に来日しているが、そのいずれも出羽への来着であった。752年以降、佐渡は外交使節が来着する可能性のある対外通交上の要地とされ、越後国府から海を隔てて遠く離れていると情報伝達に支障が出ることもあり、「国」が復置されたと考えられる。そして相澤央が指摘するように、緊張する大陸・半島諸国との関係のなかで新たに辺要国として位置づけられたのだろう48。前章でみたように、壱岐・対馬は律令制下で「嶋」として扱われた。壱岐・対馬における国家による支配のあり方について、財政面から考えていきたい。『続日本紀』天平十六年(744)七月甲申(23日)条に、詔曰、四畿内七道諸国、々別割二取正税四万束一、以入二僧尼両寺一、各二万束。毎年出挙、以二其息利一、永支二造レ寺用一。とあり、出挙の利を国分寺の造寺料に充てさせたが、壱岐については『類聚三代格』天平十六年七月廿三日付詔に、但志摩国分二充尾張国一。壱岐嶋分二充肥前国一。多褹・対馬不レ在二此限一。とあるように、壱岐嶋分寺の造寺料は肥前国に依存していた。また、延喜主税寮式71壱岐嶋分寺法会条に、凡壱岐嶋嶋分寺法会布施、供養料稲一萬二千九百七十一束一把一分五毫、〈分注略〉大宰府以二管内諸国正税一通計以充行。〈筑前国八百八十束。肥前国二千七百六十六束。肥後国三千六百廿束九把一分五毫。豊後国三千九百四束。日向国一千八百束。〉とあり、延喜主税寮式72壱岐嶋分寺仏聖条には、凡壱岐嶋嶋分寺仏聖供料稲一千三百卅二束八分、講師常供料四千七百廿六束、以二筑前国正税一毎年充行。とある。すなわち、壱岐嶋分寺の維持費も、大宰府管内の諸国から出されていた。このように、壱岐は財政的に自立しておらず、大宰府管内の諸国に依存する形で経営されていたと考えられる。対馬については延喜主税寮式21地子条に、凡五畿内、伊賀等国地子、混二合正税一、其陸奥充二儲糒幷鎮兵粮一、出羽狄禄、大宰所管諸国、充二対馬嶋司公廨一之外、交二易軽貨一、送二太政官厨一、自餘諸国交易送亦同。早稲田教育評論 第 36 巻第1号3-3 佐渡3-4 壱岐・対馬

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