早稲田教育評論 第36号第1号
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応三依レ旧置二兵士一事記において、「東辺北辺」や「辺要」として越後は含まれていない。このことの理由について考えてみたい。先にみたように、越後国に出羽郡が設置されたのは708年であり、また陸奥国の最上郡・置賜郡とあわせて出羽国が成立したのは712年である。当時は出羽郡域を除くと、越後国内で蝦夷征討事業はすでにほぼ終了していたようで、史料上、これ以後に越後における蝦夷の反乱など記事はみえないが、701年の大宝令の制定時点では、越後は蝦夷征討の最前線である出羽郡域を領域として含んでいたことになる。職員令70大国条の「陸奥出羽越後等国」の部分について古記の引用がないため、大宝令の記述は不明であるが、大宝令制定段階において越後は、「辺境」支配を担う国として位置づけられていたと考えられる。しかし712年以降、出羽郡が切り離されて蝦夷の地を含まなくなった越後国は、法制上は「辺境」としての扱いをされなくなった。そのため大宝令段階では辺要とされていた越後が、古記の成立時には辺要ではなくなっていたということであろう。続いて、養老令の段階について検討する。養老令の本文では「陸奥出羽越後等国」が蝦夷対策を担う国として挙げられている。越後の「辺境」としての扱いは、養老令でも引き継がれたということだろうか。出羽国を切り離した後も越後国内から蝦夷の存在がなくなったわけではなかった。新潟市的場遺跡出土二号木簡は「狄食」という文字が繰り返し書かれた習書木簡であり、秋田市秋田城跡出土七一号木簡に「狄饗料」とあるのと同様に、越後国内でも蝦夷への饗給が行われていたということを表している43。そのため、しばしば越後は辺要国であったとされる44。この解釈は妥当なのだろうか。この問題について考える上で、次の史料が参考になる。『類聚三代格』延暦二十一年(802)十二月付太政官符右得二長門国解一称。謹奉二去延暦十一年六月七日勅書一称。(中略)宜下京畿及七道諸国。兵士伝馬並従二停廃一以省中労役上。但陸奥出羽佐渡等国及大宰府者、地是辺要不レ可レ無レ備。所レ有兵士宜二依レ旧置一。検二案内一。兵部省天平十一年五月廿五日符称。奉レ勅。諸国兵士皆悉暫停。但三関并陸奥出羽越後長門并大宰管内諸国等兵士依レ常勿レ改者。然則此国依レ旧与二大宰府管内一接レ境。勘二過上下雑物一。常共二警虞一。無レ異二辺要一。亦山陰人稀。差発難レ集。若有二機急一。定致二闕怠一。望請。依レ旧置二兵士五百人一。以備二不虞一。(後略)延暦十一年(792)六月七日勅で陸奥・出羽・佐渡・大宰府管内を除く国々の兵士が廃されたのに対して、長門国は天平十一年(739)五月廿五日兵部省符を持ち出し、そこで三関・陸奥・出羽・越後・長門・大宰府管内について諸国の兵士を停止する際の例外としていることを前例に、大宰府管内と境を接している長門も辺要と変わらないとして兵士の復置を願い出ている。長門も越後も、それぞれ「辺境」である西海道や出羽の後背地にあたるが、長門国が主張しているようにあくまで「無レ異二辺要一」というだけであって、辺要ではないのである。先に見たように古記の段階ですでに越後は「辺境」としては扱われていなかったことを考えると、この太政官符が出された802年の段階でも、延暦十一年勅が出された792年の段階でも、長門や越後は法的に辺要として位置づけられていたわけではなく、辺要支配を支える後背地とされたものと考えられる。日本古代の国家領域と「辺境」支配31

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