早稲田教育評論 第36号第1号
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南島への日本の対応の意味は、次の史料に顕れている。『日本書紀』持統天皇九年(695)三月庚午(23日)条『続日本紀』文武天皇二年(698)四月壬寅(13日)条『続日本紀』文武天皇三年(699)七月辛未(19日)条多褹・夜久・菴美・度感等人、従二朝宰一而来貢二方物一。授レ位賜レ物各有レ差。其度感嶋通二中国一於レ是始矣。つまり南島探索は「求二蛮所居一」、すなわち異民族を求め、土地を探し求める「覓国」であり、さらにその行動は武器を用いて行われた。さらにここで『続日本紀』は日本のことを「中国」と称しており、「度感嶋」(徳之島)が初めて朝貢してきたことを誇らしげに記しているのである。このように、南島との通交には日本の小中華意識と深い関係がある。しかし、「国境」の外側から朝貢してくる存在としての南島の位置づけは、早々に変化する。『続日本紀』文武天皇四年(700)六月庚辰(3日)条に、薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君県、助督衣君弖自美、又肝衝難波、従二肥人等一、持レ兵剽二劫覓国使刑部真木等一。於レ是、勅二竺志惣領一、准レ犯决罰。とある。覓国使が九州南部の勢力によって襲われたのである38。さらに、『続日本紀』大宝二年(702)八月朔条に、薩摩・多褹、隔レ化逆レ命。於レ是発レ兵征討、遂校レ戸置レ吏焉。とある。すなわち、薩摩や多褹で反乱が起こったので征討し、さらに人々を戸籍に登録し、官吏を置いたというものである。これは、古代国家が薩摩や多褹を内国化したことを意味する39。内国化により、種子島や屋久島を領域とする行政区画としての多褹嶋が成立し、嶋司が派遣されて支配されるようになった。そして前述のように壱岐・対馬とともに「三嶋」とされ、西海道の「辺境島嶼」として位置づけられたのである。一方で、南西諸島のすべてが多褹嶋の領域になったわけではない。多褹嶋に官吏が置かれた後にも、『続日本紀』には次のような南島人の朝貢記事がみえる。和銅七年(714)十二月戊午(5日)条少初位下太朝臣遠建治等、率二南嶋奄美・信覚及球美等嶋人五十二人一、至レ自二南嶋一。霊亀元年(715)正月朔条陸奥・出羽蝦夷并南嶋奄美・夜久・度感・信覚・球美等、来朝各貢二方物一。養老四年(720)十一月丙辰(8日)条南嶋人二百卅二人、授レ位各有レ差、懐二遠人一也。神亀四年(727)十一月乙巳(8日)条南嶋人百卅二人来朝。叙レ位有レ差。このように、奄美・夜久(屋久島)・度感(徳之島)・信覚(石垣島)・球美(久米島)や、漠然と「南嶋」からの朝貢が行われているが、ここに種子島がみえないことから、多褹嶋の領域とならなかった島々からの朝貢について述べたものであると考えられる40。遣二務廣貳文忌寸博勢・進廣参下訳語諸田等於多禰一、求二蛮所居一。遣二務廣貮文忌寸博士等八人于南嶋一覓レ国。因給二戎器一。日本古代の国家領域と「辺境」支配29

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