築二倭国高安城・讃吉国山田郡屋嶋城・対馬国金田城一。道の佐渡、南海道の淡路、山陰道の隠岐、そして西海道の壱岐・対馬・多褹・値嘉(五島列島)が挙げられる。畿内に近い淡路国を除いた島国(「辺境島嶼国」と呼ぶこととする)のうち、佐渡と隠岐は「国」とされたが、壱岐・対馬・多褹・値嘉には「嶋」という特殊な行政区画が置かれた。では、いつから「嶋」という行政区画は誕生したのだろうか。対馬については『日本書紀』に、次のように「対馬国」と表記する記事がみえる31。天智天皇六年(667)十一月是月条天智天皇十年(671)十一月癸卯(10日)条対馬国司、遣二使於筑紫大宰府一言(後略)天武天皇三年(674)三月丙辰(7日)条対馬国司守忍海造大国言、銀始出二于当国一。即貢上。その後『続日本紀』では、次のように「対馬嶋」「対馬嶋司」とする。文武天皇二年(698)十二月辛卯(5日)条大宝元年(701)三月甲午(21日)条対馬嶋貢レ金大宝元年(701)八月丁未(7日)条『日本書紀』の「対馬国」は、天武朝における国の境を確定させる事業以前の記事であることから、令制国としての「国」が「嶋」に名称変更されたものであるとは考え難い。また、『続日本紀』慶雲三年(706)七月己巳(28日)条には、大宰府言、所部九国・三嶋、亢旱大風、抜レ樹損レ稼。遣レ使巡省。因免二被レ災尤甚者調役一。とあり、大宰府管内に「九国・三嶋」があるとされていることから、すでに8世紀初頭には壱岐・対馬・多褹が「嶋」として一括して捉えられている32。そのため、令制国が成立する段階で、壱岐・対馬・多褹には「嶋」という特殊な行政区画が置かれたと考えらえる。「嶋」における支配の特殊性については、次章で検討したい。南西諸島の島々は、古来より南島と称された。古くは『隋書』東夷伝・琉求国にも「夷邪久国」についての記述があるが、日本史料では、屋久島と考えられるヤクについて、ヤク人の来着 33やヤクへ遣使記事34が初出であり、7世紀前半には南島と倭との間で通交があったことがうかがえる。その後、倭・日本が本格的に南島進出を進めるのは天武朝からである35。種子島と考えられる多禰嶋の人の朝貢記事36や、多禰嶋に対する使節派遣と現地調査の記事37がみえる。28令三対馬嶋冶二金鉱一。先レ是、遣二大倭国忍海郡人三田首五瀬於対馬嶋一、冶二成黄金一。至レ是、詔、授二五瀬正六位上一、賜二封五十戸、田十町、并絁・綿・布・鍬一。仍免二雑戸之名一。対馬嶋司及郡司主典已上、進二位一階一。其出レ金郡司者二階。(後略)早稲田教育評論 第 36 巻第1号2-3 南島の服属と内国化
元のページ ../index.html#34